「様! そこは仕置き部屋です、お待ちを…!」
「黙りんす。日輪の情けない面を拝みに来ただけじゃ、通しなんし」
「様!!」
追いかけてくる女の言葉は気にせず、私は歩いていた。
かつては自分も住んでいた場所だ、何がどこにあるかは、ある程度覚えている。
さて、仕置き部屋というが、ここは折檻部屋じゃなかったか?
私自身が放り込まれたことは一度もなかったが、しょっちゅう放り込まれていた女が居た。
――そう。昔と寸分違わず同じ目をした、この女。
「――相変わらずだね、日輪。
何回仕置き部屋に放り込まれたら気が済むんだい、あんた」
脚に包帯を巻かれた、痛々しい姿ながら。
項垂れるでもなく、毅然としたその女は、私の顔を見て眼を瞠った。
「……夕月?」
…ああ、そういえば。
この見世に居た頃は、そんな名前で呼ばれていたっけか。
そう仲良くしていた覚えもないのだが、よく覚えてるもんだ。
「…知らねぇよ、そんな名前。私ゃ三浦屋のだ」
「ああ、今は三浦屋の名跡を名乗ってるだったっけね」
「その状態で呑気に昔話たぁ、器がでけぇのかホントに馬鹿なのか悩ましいよ。
他人のガキ抱えて逃げるなんざ、馬鹿な真似したね」
「…知ってんのかい」
「知ってるとも。あんたと違って、私ゃ親父様の「お気に入り」だからね」
「…そうだねぇ」
――私は、たぶん。日輪が嫌いなのだろう。
なにも彼女が、常に番付の一位だからとかではなく。
彼女が、男達のみならず他の遊女達にも慕われているからではなく。
彼女の存在自体が。…その在り方が、気に食わないのだ。
陽の光の届かぬこの地下で、ひとり、太陽のように輝くこの女が。
あの男が、歪な執着を抱くこの太陽が――気に食わないのだ。
「…あんた、逃げ切れると思ってたのかい?」
「まさか。…あの子を外に出せたら、それで良かったさ」
「死ぬつもりだったのか。…なら、あんたが面倒見てた禿達はどうするつもりだった」
「…それは」
「世話焼き、お人好しも結構だが。…てめぇは考えなしだ。吉原の太陽が聞いて呆れる」
他人の子供を抱いて、逃げて。
子供を逃がすことが出来たなら、それで良いと。
本気で言っているであろうこの女の、この目が嫌いだ。
子供を見逃す代わりに、自分からここに繋がれに戻ってきたか。
…脚の包帯。腱を切られたな。
そこまでして、この女は何を得たのだろうか。
「せいぜい死ぬまで座敷に繋がれて、見世物にされるがいい。
好き勝手飛び回ってたツケが回って来たんだ。…ホントに、馬鹿なことしたよ、あんたは」
「…」
見下ろす私を真っ直ぐに見上げて、日輪は口を開く。
酷く静かなその声音は、居心地が悪くなるほどだ。
「あんた、私が嫌いなんだね」
「…ああ、嫌いだね。
あんたが居なけりゃ、私がいっち売れっ妓だ。当たり前だろ」
「そんな俗っぽいこと、あんたは考えちゃいないだろ?」
「……」
「私の禿にね。月詠、って娘がいるんだ。
あんたとおんなじ、月の名前の娘。…もうすぐ新造出しの年頃なんだけどさ」
「…その時期に手前は何やってんだい」
「あんたの目は、昔のあの娘にそっくりなんだよ」
「……」
「ねぇ、」
煩わしい、と。
明確な嫌悪を抱くのは、この女が最初で最後かもしれない。
何故、ここまで嫌悪するのか、自分でもわからないくらいだ。
「あんたは、昔から決して鳳仙に逆らわない。
いつも昏い目で、だけどその目はまだ死んじゃいない」
「……」
「あんた、いったいここで、何を思って生きてるんだい?」
「…そんなもん、あんたにゃ一生、理解出来ねぇだろうよ。
――気が削がれた。まったく、少しはしおらしくしてるかと思えば、相変わらずたぁね。
その脚じゃあ、まともな仕事は出来んだろう。せいぜい格子の内側で客引きパンダやってろ」
一度落ちれば終わらぬ地獄。
その地獄で、何を思って生きるのかなどと――訊いてくるのは、この女以外居ないだろう。
この女はいったい、強いのか、ただの馬鹿なのか。…どうしてこいつは、こうも私を苛立たせるのだ。
「年季明けも、身請けも、足抜けも出来ないままで、――そこで腐って死んでいけ」
「……ねぇ、。…夕月」
背を向けた私に、変わらず静かな声音で、日輪は語る。
「護りたいもん護る為なら、私ゃここで――腐って死んでいくことを、喜んで選ぶよ」
「………〝夕月〟なんて名前の新造はもう居ねぇよ、日輪太夫。何度も言わせんな」
「そうだったね、…太夫。
あんたは私を嫌ってるんだろうけど、私はあんたのこと嫌いじゃないよ」
「…そういう手練手管は客相手にやりな」
「はははっ、酷いねぇ。嘘じゃない、本当さ」
子を奪われ、脚を奪われ、繋がれておきながら。
日輪は昔と変わらずに、笑う。腹立たしい程に。
「あんたの弾く三味の音と唄声が、私は子供の頃からずっと好きだったよ。
あれだけの音、あんたにしか出せやしない。あんたの姐さまより、私の姐さまよりずっと上手い。
自分もあんな風に弾けたら良いのにって、妬いたくらいにね。あんたが見世替えして寂しく思ったよ」
「……日輪太夫ともあろうもんが、他の太夫を羨ましがるんじゃないよ」
――こういうところが、嫌いなのだ。この女。
壊すことしか知らない私の、奏でる音を好きだと臆面もなく言う女。
廓に飛び交う言葉はすべて嘘。騙し騙されるがこの吉原。
だから信じやしない。
誰からも慕われる女が、ただ一人、自分を嫌う女に投げた言葉なんて。
――そう、いえば。
生まれた子供は、男だろうか。女だろうか。
父親も母親も知らぬその子は…いつか、母親を求めるだろうか。
そしてその母がもう亡いと知った時――復讐しようとするだろうか。この、吉原に。
「…くだらねぇ」
そんなこと、私が考えることじゃない。
…〝何を思って生きてるか〟だって? そんなの私が知りてぇよ。
あの男を殺す為に、ここに来た。
その為だけに、殺意だけを抱いて、ここで生きてきた。
護りたいもの? そんなもんの為に、意地張ったって意味はない。
そんなもん、作ったら終いだ。――拳が鈍って、あの男を殺せなくなる。
弱みを作るなんて、馬鹿だろう。それが為に鎖で繋がれ、飼い殺されるなんて愚かしい。
あの男の首を取る為に、すべての感情を捨ててここまできたのだ。
これ以上堕ちる場所などありはしない。
気高い太陽には、わかるまい。
太陽の陰で輝く月の名は、とうに捨てた。
――ここにはただ、地の底で咆哮を上げる獣が居るだけだ。
To be continued?
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