――日輪が道中を張らなくなってから、2年が経った。
当然のように、番付で私は一位を飾り続けたが、日輪の人気が衰えたわけでもない。
変わらず声が掛れば私は親父様の元へ行くが、あの日以来、日輪には会っていない。
噂では彼女の禿――月詠といったか。その娘が百華に入ったとか、そんな話を聞いた。
私はその間にふたりの新造を一人立ちさせ、最後の一人である乙葉の養育中である。
目の前で三味線をかき鳴らすその妹女郎は、今年17歳になる。
もう一人立ちまでそう日は無い。成長したものだ。
…が、耳に届く旋律に、私はぴたりと手を止めた。
「違う違う! 何回同じ場所でトチるんだいお前は!
確かにその曲は難しいが、指を誤魔化して気づかれないと思ってんのか!」
「ご、ごめん姐さん…」
「もう一回頭から! 次トチったら飯抜きだよ!」
「は、はいっ」
真面目で素直なのは良いが、どうしてこう、そそっかしいのか。
新造出しから面倒を見てやっているが、乙葉はどうにもあと一歩でドジを踏む。
器量、芸事、どれをとっても三浦屋の看板足り得る妓なのだが。
…もうすぐ一本立ちするというのに、色んな意味で変わらない娘である。
「…いつもこんな感じだったっけ?」
「乙葉ちゃんの初見世が近いので、姐さんが一段と厳しくしていんす」
「あー、なるほどねー」
背後で交わされる呑気な会話に、私はため息を吐き出して、胡乱な視線を投げた。
「…………で。見世の始まる刻限前になんで居るんだいあんたは」
「えー?」
「おはぐろどぶに捨てるぞこのガキ」
「あはは、番付一位の太夫とは思えない形相。
夜になったら客として来るから良いじゃない、どうせ誰も気にしてないし」
「…あんたねぇ」
怒る気も失せる…。
合いも変わらず、呑気で何考えてるのかよくわからない奴である。
2年経っても、下手な女より上等の器量は変わらず、青い瞳に宿る暗い色も変わりはしない。
…多少、出会った頃より表情は豊かになったが。
「乙葉の気が散るから、奥でそよぎとかなでと遊んで来い。邪魔だ」
「酷いなぁ」
「やかましいわ。見世の始まる刻限前に居座っとる奴を客とは言わん、寄生虫と呼ぶ」
「2年経ってもはだね。まあ、いいや。行こうか、ふたりとも」
「「あーい」」
「乙葉もガンバレ」
「えっ。…あ、うん…」
と、周囲に気遣うセリフを吐ける程度には、世渡り慣れしたようである。
…吉原で世渡り慣れもどうかと思うが、外でのこいつは私には知りようがない。
「ま、あれはどうでもいい…さて。いいかい、乙葉。あんたはうちの秘蔵っ妓だ。
あんたは見目も良いし、芸事の筋も良い。次にの名跡を継ぐのはあんただよ」
「姐さん…」
「だが美しいだけじゃあ、大見世のお職は務まらんし、必ず身請けしてもらえるとも限らん。
だからあんたには厳しく三味の稽古をやらせてるんだ」
「年季明け後も、ひとりで生きていけるように…」
「そう。三味の師匠なら食うには困らんだろ?
三浦屋のような大見世ならともかく、中見世や小見世じゃあ新造は三味線習いに余所へ通うのが通例だ」
それに、元三浦屋の花魁となれば、それだけで他と差が付く。
現役時代に三味が上手い、と評判になっていればなおさらだ。
そういう意味では、乙葉は問題ないだろう。三味の腕前だけなら、だが。
「それと、あんたの初見世の相手だが」
「あ、あの、姐さん」
「ん?」
今まで素直に言われたことに相槌を打っていた乙葉が、珍しく私の話を遮る。
珍しいこともあるもんだ、と視線で促すと、一瞬躊躇ってから、意を決したように口を開いた。
「わ、わっちの初見世の、相手っ…か、神威様じゃダメでありんすか!?」
「………は?」
思わず、目を瞬かせてしまった。
…なんだって? 何かとんでもないことを言われたような。
「神威様がわっちなんて気にも留めてないのは、充分わかっていんす。
姐さんの馴染みさんがたくさん、わっちの水揚げを申し入れてくれているのも…でも…」
「…乙葉」
パンッ、と。
乾いた音と共に、乙葉の体が畳に投げ出された。
手加減はしたが、それでも私は純血の夜兎。
白い頬は赤く腫れていることだろう。…こりゃあ、今日は座敷に出せねぇな。
「…半人前の新造が、姐女郎の馴染みに岡惚れかい。馬鹿をお言いでないよ」
「ね、姐さ…」
「…あれはあんたの手に負える男じゃありんせん。
抱えの新造の初客は、姐女郎が決める。そんな我が儘が通ると思いでないよ」
――どちらにせよ。
力加減を知らぬ若い夜兎の相手を、乙葉のような普通の娘がするのは無理だ。
今まで私が面倒見てきた新造で、水揚げ前なのはもうこの乙葉だけだが、
その分一番可愛がって面倒をみていたのは、私自身にも自覚はある。
その手塩にかけて育てた妹女郎を、むざむざ死なせるわけにはいかない。
「……わっちは、姐さんみたいにはなれんせん」
ぽつりと、小さく、乙葉が呟いた。
そして、ぐっと拳を握り締めたかと思うと、勢いよく立ち上がった。
「…初めての相手くらい…好きな男と、と思うのは…何も我が儘なことじゃありんせん…っ」
「乙葉っ!! お待ち!!」
そのまま座敷を駆け出していく乙葉に声を掛けるが、当然、止まるわけもなく。
遠ざかる足音を聞きながら、私は思わず頭を抱えてしまった。どうしてこうなった。
「…よりによって、厄介なのに惚れやがってあの妓は…」
…さて、これはさすがに予想外だ。
乙葉が、ほとんど飯食うか遊びに来ていた神威を慕うようになるなど、予想もしちゃいなかった。
が、よく考えれば、あの子は同世代の男なんぞ見慣れない、廓育ちの禿立ちである。
親父様絡みのいわくつきの客とはいえ、表面上は愛想の良い同世代の男。
さらには、若い娘の好みそうなあの外見だ。予想出来なかった私の落ち度と言わざるを得ない。
乙葉は呑気な性格だし、おっとりしていて逆に心配するくらいだった。
素直で反抗期も起こさなかったような子だったのだが…まったく、色恋とは恐ろしい。
「…思うだけなら我が儘じゃねぇが、口に出したら我が儘だろうが。
あんなんで一人立ちした後、やっていけるのかねぇ、乙葉の奴…」
――遊女が恋などしたところで、苦しいだ。
惚れても地獄。惚れられても地獄。
恋に命を懸けて、命を落とす女、心を壊す女など今までにも掃いて捨てる程にいた。
女に成れぬならせめて母にと思っても、それすら叶わない。
『選べる立場』にある太夫ですら、それだけは儘ならない。
…そもそも、だ。
間夫どころか帯すら解かぬ姐女郎を見てきて、何故、ああもまともな感性に育ったか。
「なに、喧嘩? 物凄い音が聞こえたけど」
「…神威」
元凶が、呑気な顔で来やがった。
本人には与り知らないことだろうが、若干の苛立ちを覚える。…ぶつけはしないが。
「…初見世が近くてヒス起こしただけさ。
私の新造にしちゃ、乙葉は真っ当な感性だからね」
「そうだね、に育てられたら凶暴になりそうなのに大人しいし」
「あんたは私をなんだと思ってんだい」
「化け物」
「殺すぞ」
「ホラ、怖い怖い」
誰が、化け物だ。こいつにだけは言われたくない。
楽しそうに笑う神威の頭を、乱暴に撫でる。
私は長身な方だからまだ手は届くが、会った頃よりだいぶ背が伸びた。
そのうちあっさり追い抜かれるだろう。…の、割に中身は相変わらずだが。
「…図体ばっかでかくなって全然中身変わらねぇなあんたは」
「痛いって。首もげる」
「さすがの私でも、片手で首は捩じ切れねーよ」
「…それ、両手使えば出来るって言ってる?」
「言ってる」
「それで、化け物じゃないって?」
「いくら純血の夜兎でも、男に比べりゃ女は腕力で劣る。
今は無理だろうが、あんただってあと2、3年もすりゃ簡単に出来るんじゃねーか」
「いや、出来るか出来ないかで言えば出来るんだろうけど、……別に首捩じ切りたいとか言ってないよね俺は」
「あれ? 違ったのかい」
「…ってやっぱ夜兎だなーって思う、すごく」
「そりゃどーも」
花も月も蝶も、私には似合わない。
私の本質は獣だ。目の前の同胞と同じように。
「だってあんた、私のこと殺したいんだろ?」
「え? 俺はに死んで欲しくないよ?」
「…は?」
今日は、ことごとく予想外の言葉に遭遇する日らしい。
不思議そうに返された言葉こそに、私は思わず眼を瞠る。
だが、私のそんな反応にも相手はお構いなしに身勝手だった。
「さて、鳳仙の旦那に呼ばれてたの忘れてた。
昼見世の邪魔しちゃ悪いし、俺はそろそろ行くよ。また夜にね、」
「あ、ちょ…!」
どいつもこいつも、こっちの話なんざ聞いちゃいねぇ。
窓から出ていくという行儀の悪さを発揮するその背を見送って、苦笑した。
「…「また夜に」って…意味わかってんのか、あいつは?」
To be continued?
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