ふと、外が騒がしくて目が覚めた。
窓の外に視線を向けるが、まだ夜明け前だ。
「…なんの騒ぎだ…」
身を起こすのとほぼ同時に、襖を蹴破らんばかりの勢いで女が飛び込んできた。
「! 起きてる!?」
「…小紫…」
小紫は、この三浦屋の花魁だ。
座敷持ちの昼三。いうなれば、三浦屋のNo2。
私が三浦屋に見世替えしてなけりゃ、お職は彼女だっただろう。
…要するに、私を恨んで煙たがるのが筋のはずなのだが、やたら構ってくる。
「起きてる。いったい、なんの騒ぎだい?」
「なんでも足抜けらしいんだよ」
「ンなもん珍しくねぇだろ…」
京の島原や祇園と違い、吉原は女が地上に出ることを許さない。
つまり吉原から出るには、年季が明けるか身請けされるか、命懸けて足抜けするか。
通常、遊女の年季は7~10年。だが年季が明けて地上に出ていく女は非常に少ない。
そもそも、廓育ちの禿立ちが、身一つで地上で生きていくのは難しい。
それなり以上の売れっ妓なら身請けされる可能性もあるが、禿や新造の世話やら自分の着物やらで借金は嵩み、年季は伸びる。
まさしく生き地獄。が、飢饉で売られてきた娘達からすれば、今の生活の方がいくらかましだろう。
では、どういった遊女が足抜けしようとするのか。
9割方、身請けするほどの金の無い間夫との駆け落ちである。馬鹿らしい。
「たかが足抜けでこの騒ぎたぁ、どんだけみんな暇なのかねぇ」
「いや、それが…その足抜け、日輪らしくてさ」
「は? 日輪が足抜け?」
さすがに、その名前をここで聞くのは予想外だった。
「なんだって、日輪が? そりゃあ親父様に逆らうような馬鹿だが、
さすがに間夫に入れ込むほど阿呆じゃねぇだろ、あの女は」
「いや、なんでもさ…子供連れて逃げたらしいんだよ」
「ガキだァ? 日輪んとこの禿のあれ、なんて言ったか。月詠だっけ。あれかい?
そろそろ新造出しの頃だろ、まさかそれが嫌で逃がしたなんてことは…」
「禿じゃないよ。生まれたばっかの赤ん坊だって」
「…は?」
思わず、目を瞬かせた。
まじまじと小紫を見つめてみるが、どうにも、本気のようだ。
「………なんでそんなもんが吉原にいるんだい」
「そんなの、私が知ってるわけないだろ?
廓育ちの日輪が足抜けのリスク知ってて連れて逃げたんだ、日輪が産んだんじゃないのかね」
「アホか。大見世のお職張ってる太夫が、人知れず子供産むなんざ出来やしねぇよ」
「でもさ、最近じゃ日輪、あんま客取ってないって…」
「ガキが生まれてくんのは十月十日、腹が膨れんのがいつからか知ってるかい?
切見世の鉄砲女郎じゃあるめぇし、一年近く客取らなきゃバレるわ。
腹に子を抱えたまんま客取ってりゃ確実に流すぞ。だいたい、生み落してすぐ走って逃げられるかい」
大見世・中見世・小見世に限らず、遊女が子を孕めば腹の子ごと始末されるが吉原の掟。
見世の者や百華の目を盗んで、身重の女がひとりで子を生み落せるような環境じゃない。
よしんば生み落せたとして、即座に赤子を抱えて逃げる力などありはしないだろう。
それならいっそ、孕んだ時点で足抜けする方がまだ、助かる確率があるくらいだ。
「じゃあ、いったいその赤ん坊は…」
「…大方、どこぞの遊女が産んだんだろ。
日輪だけじゃなくて、何人かの遊女が匿ってたんだろうよ」
日輪ならば――幾人かの百華を抱え込むのも、わけはないだろう。
そうして取り上げられた赤ん坊を、何故彼女が抱えて逃げねばならなかったのかなど、想像に難くない。
「…その赤ん坊を産んだ遊女は、死んだんだろうな。だから日輪が連れて逃げたんだろ」
廓育ちの禿立ちが何人集まったところで、お産の知識などあるわけもない。
子供一人生み落すのに、どれだけの力が必要か。
まともに食事も口に出来ないであろう環境で、無事に子が生まれただけでも奇跡だ。
「…馬鹿だ馬鹿だと思っちゃいたが、本当に馬鹿な女。
てめぇが連れて逃げたところで、どうにもならねぇだろうに」
「鳳仙様が直々に捕物に出た、って噂もあるけど、まさか…ねぇ」
「さァな。親父様はあの反抗的な花魁にご執心だ。噂じゃねぇかもしれねェよ」
「何言ってんだい。鳳仙様がお気に入りなのはあんたじゃないか」
「………」
笑う小紫のその言葉には、別に他意はないだろう。
…お気に入り、ね。
神威ですらそう思ったのだから、長くここに居る小紫がそう思うのも、無理はない。
だが――そんな事実はないし、あったとしてもそれは、嬉しい事であるはずもないのだ。
急に黙り込んだ私に、小紫は不思議そうに首を傾げた。
私はただ、苛立ちを隠すようにキセルに手を伸ばす。
その瞬間、微かに届いた衣擦れの音に私は視線を襖の外へ向けた。
「。起きてるかい」
「…千客万来だなこりゃ。なんだい、ご内儀」
「お前さん、今日は見世出なくて良いよ」
珍しい。
言うなれば三浦屋の看板に、「見世に出なくて良い」とは。
「なんだい、どこぞのお大尽が総仕舞いでもやりやがったか?
老舗の大見世『三浦屋』で総仕舞いたぁ豪気な旦那だねぇ」
「違うよ、今どきそんなお大尽いるもんかい。
…鳳仙様がお前さんをお呼びなんだよ。だから今日は客は取らなくて良い」
「………」
もちろん、どこぞの旦那が三浦屋で総仕舞い、などと本気で思っちゃいないが。
よりによって、そう来たか。
「は凄いなぁ。末は花車かね」
「…アホ抜かせ、小紫。私ゃそんな器じゃねぇよ」
花車。…内儀? 親父様の?
間違ってそんな申し出された日にゃ、さすがの私でも舌噛んで死ぬさ。
だがそんなこと、万に一つもありはしない。
「それに――あの親父様にゃ、そんなもん必要ねぇさ」
+++
――いつも賑々しい見世は、まるで通夜のように静まり返っていた。
もともと、夜王鳳仙の使う座敷は、滅多に人は近づかない。
賑やかしを嫌うこの男の機嫌を損ねぬように、最低限の決められた人間だけが出入りする。
その静寂の中で、弾く三味の音と唄声が妙に響く。
不機嫌なこの男を前にして、堂々と三味が引けるのは私くらいだろう。
膳の上げ下げをする男衆ですら、怯えが出ぬよう無表情を保って動いているくらいなのだから。
「――噂は既に耳に入ったか、」
「はい。…未だに、信じられんせんが」
「で、あろうな。日輪も愚かな女よ」
愚かだと、言うなら。
何故、そんな渇いた目であの女を語る。
「ときに、。ぬしは抜けたいと思ったことがあるか」
「…何をおっしゃいんすか。わっちに、そんな人並の感性があるわけがありんせん」
「ぬしは実によく出来た女よ」
あんたにとっては、面白くない女だろうよ。
それでもこの男が私に構うのは、私が同族だからだろう。
「日輪を太陽と称するのであれば、ぬしは月か」
「月は太陽がなくば輝けんせん。わっちと日輪が対だとでも?」
「日輪と一緒にはされたくないか?
なるほど、ぬしは実に高慢で気高い。――なれば、常夜に舞う蝶か」
「……」
「花なれば誰にでも手折ることは容易。
だが蝶を捕らえ、閉じ込めておくのはそう容易ではあるまい」
――殺すのは容易だけどな。
「――ならば親父様は、蝶を絡め取る蜘蛛でありんすか」
「…面白いことを言う」
嘘でも良いから微笑えというのなら、菩薩のように微笑って見せよう。
人形のように大人しくしていろと言うなら、てこでも動かん。
はしたなく声を上げろと言うなら従うし、耐えろというなら耐えて見せる。
――他の誰にも帯を解かぬ女をねじ伏せたいのであれば、そう振る舞ってやろう。
「。三味を置いてこちらに」
「……はい」
――心はとうに凍えて、もう、何も感じはしない。
涙の流し方も忘れた。今やこの行為に、怒りを覚える感情すらない。
…昔、母親が縋るように名づけた名前も、もはや憶えてないのだ。
ここに来たばかりの頃、つけられた名前も忘れた。
名前は記号で、今の私は三浦屋の。それだけでいい。
日に日に母親に似ていくこの顔も、この男の記憶を揺さぶりはしない。
当たり前だ。好いて娶ったわけでもない相手を、覚えているわけがない。
――端から娘なぞ、この人にとってはいないも同然だったのだから。
笑えるだろう。泣けてくるほど滑稽だ。だけど私は泣かない。
「――どうした。何を笑う」
「…いえ。親父様がわざわざわっち如きを呼びつけるのが不思議で」
「吉原一の名妓が妙なことを言う」
――遊女を、愛でるふりが出来るなら。
何故、娶った女を愛すふりをしてやらなかったのか。
女にも母にも成れずに死んだ、その女を――憐れにすら、思わなかったのだろうか。
…ああ、いや。もう、どうでもいい。
私はいつかこの男を殺す。その時私も死ぬだろう。
だけどそれは、憐れな母親の仇討ちなどではない。
――喜べ、クソ親父。
あんたの娘は、あんたの大好きな夜兎の因習を受け継いでいる。
そう、だからこれは復讐なんかじゃない。
これは、夜兎の廃れた因習――親殺しだ。
To be continued?
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