「もーーっ、信じられないッ」
ドンッ、と。
荒々しい所作で、リナリーはデスクの上に花瓶を置いた。
殺風景な司令室を飾る唯一のそれは、定期的にリナリーが用意しているものだった。
…最も、コムイを始め科学班の面々は、全然気にしていないのだが。
「どうしたんだい、リナリー? 荒れてるね」
「聞いてよ兄さん! 神田がを苛めるのよ!!」
コーヒーを片手に近寄ってきたコムイに、リナリーは怒りながら答えた。
彼女の返答に、コムイはきょとんと目を瞠る。
「苛める、って…訓練って聞いたよ?」
「だって毎日毎日、朝から晩までよ? その度に青痣作ってるのよ!?
女の子の身体に青痣作るなんて、酷いじゃないッ」
ああ、なるほど。と、コムイは納得したように頷いた。
毎日のようにリナリーが救急箱を片手に、走り回っているのはコムイも知っていた。
「でもねぇ…ちゃんが基礎体力つけなきゃいけないのは事実だし…」
「そりゃあ、が自分で納得してるなら、とやかく言わないけど…」
むぅ…と顔をしかめるリナリーに、コムイは苦笑する。
初めてとも言える、同世代の女友達だ。大事にしたいのはわかるが、あまりに過保護過ぎやしないか。
「ちゃんはお姉さんなんだから、そこまで心配しなくても」
「…このままが男性恐怖症にでもなったら、兄さん責任取れる!?」
「さすがにちゃんじゃあ若過ぎるかなー」
勢い込むリナリーの言葉に、コムイは苦く笑う。
さすがに10歳も歳が離れていたら、相手も嫌がるだろう。
「まぁ、落ち着きなさい。ここは神田くんに任せておいて」
「でも、それじゃあが可哀相よ!」
「いいから」
がなるリナリーを宥めながら、コムイはどこか意味深に微笑う。
「神田くんが他人に興味を示すのは珍しいことだよ。
ちゃんの存在は、彼にとっても大きな意味のあるものになる」
「……」
言葉を詰まらせるリナリーの前で、コムイは花瓶に生けられた切り花を一本、手に取った。
整ったその切断面を見下ろしながら、彼は小さく笑って呟く。
「だから、しっかり根付かせなきゃいけないよ。
切り花じゃ意味が無いんだ。…信頼とか絆とか、そういうものはね」
わたしは、ぼんやりと薄暗い天井を見上げていた。
時計が示す時刻は、深夜1時だ。
「………」
…
……
………体が痛くて眠れません。
「うぅ…疲れてるのになぁ…」
ため息を吐いて、わたしは身を起こした。
筋肉痛ももちろんあるけど、なによりこの痣!
リナリーが手当してくれたけど、痛いもんは痛い!
あ、なんかだんだん苛々してきた。
「…水でも飲んで来よう…」
…ちょっと、夜の廊下は怖いけど。
もそもそとベッドから抜け出す。
不意に、視界の端で何かが光ったような気がして、わたしは窓の方に視線を向けた。
「…あれ…? 森の方、何か光ってる…」
――なんだろう、あれ。
思わず、わたしは窓を開けて窓枠に足を掛けた。
ぐっと身を乗り出し、自分の中のイノセンスに意識を集中させる。
「――イノセンス、発動。舞え、《黒曜》」
バサ…ッ、と。
背後で羽音が微かに響いた。
+++
森の中を、わたしは茂みを掻き分けながら歩いていた。
夜の森って不気味だ…やめておけば良かった。
でもこの逸る好奇心は抑えられないわけですよ!
「確かこっちの方…うわぁッ!?」
いきなり、目の前に抜き身の刃が突きつけられた。
え、なに!? ナニコレ!?
「――! おまえか」
「な、な、な、なにすんのッ?!」
聞き慣れた声に、ようやくわたしは、突きつけられているものが六幻だということを認識する。
スッと、音もなく六幻は引かれる。
逸る動悸を抑えるように胸を押さえるわたしに、目隠しを外しながら神田が舌打ちした。
「女がこんな時間にふらふら出歩くんじゃねぇよ。何やってんだ」
「夜中に目が覚めたら、森の方が光ってたから気になって。…あれ、六幻だったんだね」
ようやく抜き身の刃から解放されて、わたしは安堵の息を吐いた。
しかし物騒な男だよ、本当に…。あと目のやり場に困るから団服着てくれ。
「…さっさと戻れ。そんな薄着で夜中に出歩くな、はしたねぇ」
「酷ッ!? そういう神田こそさっさと寝なさいよ、露出狂みたいな格好してないで」
「おまえな…!」
「なによ!」
しばし、わたし達は真っ向から睨み合う。
神田の眼光なんてもうここ数日で慣れっこだ。怖くなんかない!…た、多分。
「………」
「………」
やがて、神田の方が先に視線を外した。
面倒くさそうに舌打ちしながら。
「…可愛くねぇ女」
「悪かったわねッ!!」
どうせ可愛げなんかないですとも!
ああ、くそ。来るんじゃなかった!
さっさと戻ろうと思って、わたしは踵を返した。
苛々しながら地面の草を梳るように歩いていると、不意に怒鳴りつけられる。
「…おいッ! 馬鹿、そっちは…!」
「なにっ」
いきなり怒鳴りつけられたわたしは、歩を進めたまま顔だけ振り向く。
瞬間、足下から地面が無くなった。
「…え?」
「ッ!」
落ちる、という感覚を初めて感じた。
落下感の不快さに、顔をしかめる。
反射的に伸ばした腕が掴まれて、そのまま抱き込まれた。
この時わたしには、イノセンスを発動する、という考えも浮かばなくて。
――ただ、きつく目を閉じた。
+++
「…いたた…」
腰を強かに打ったのか、鈍い痛みに呻きながら起き上がる。
怪我はしなかったようだ。なにこの奇跡。
「…てめぇは…受身も満足に取れねぇのか…ッ!」
「うわあああっ!? ご、ごめん神田! すぐ退くから!!」
急に自分の下から聞こえた声に、思わず飛び上がる。
…思いっきり、わたしは神田の上に乗っかっていたらしい。
「この馬鹿! 方向感覚がねぇのかおまえは!」
「ごめんなさいごめんなさい!」
跳ね起きた神田に怒鳴られて、わたしは咄嗟に謝罪の言葉を叫ぶ。
なにこのマンガみたいなラブハプニング系のイベント!
あり得ない!!
「ちっ…怪我は!?」
「し、してません!」
「…なら良い」
「へ?」
…
……
………それだけ?
もっと罵詈雑言が来ると構えていた分、わたしは思わずまじまじと神田を見つめた。
そんなわたしに、神田はおもむろに団服を脱いで投げつける。
「わぷっ」
「着てろ」
…あ、そういうことか。
おもむろに脱ぎ始めるから何かと思った。
確かにわたしの今の格好は、キャミソールワンピースみたいな形だ。見てる方は寒いだろう。
「…」
着なきゃ着ないで怒られそうだし、神田もワイシャツ着てるから大丈夫か…。
試しに羽織ってみる。…ええと。袖から手が出ません。裾引きずっちゃうんですけど良いのかこれ。
「あ、あの、神田は怪我してない…?」
「………おまえに心配されるほどヤワじゃねぇ」
「あーそーですかー」
…可愛くない…。
小さく息を吐いて、わたしは上を見上げた。
まっ暗でよく見えないけど、結構高さがあるのはわかる。
「…あー…結構高さあるねー…」
「…普通気づくだろ、これだけ高さ違えば」
「悪かったわね、夜目も利かなければ方向感覚も無いわよどうせッ」
怒鳴り返して、神田が眉間に皺を寄せてるのに気付く。
そんなに怒らなくても、と思いながら、わたしはその顔色の変化に気付いた。
「…神田?」
「なんだ…」
「あんた、顔色悪くない?」
「…気のせいだろ。夜目の利かないおまえの目なんか信用すんな」
「おいこら」
なんて暴言ですか。信用するなって。
「…ちょっとこっち来て!」
「……ッ」
腕を取った瞬間、あまりの体温の高さに目を瞠った。
慌てて腕を伸ばして、神田の額に触れる。――熱い。
「…あ、あんた、この熱…!?」
「大したことじゃねぇ…騒ぐな、うるさい…」
「うるさいって…!」
岩壁に背を預けて、神田はそのまま座り込んだ。
呼吸も荒くなってきてるし、絶対大丈夫じゃない!
「…怪我が治りかけてて、反動で発熱してるだけだ。すぐ治まる」
「怪我…?」
「ちっ…大したことねぇよ、捻挫だ捻挫!」
わたしは、目を瞠った。
捻挫。…もしかして、わたしを庇ったとき?
「…わたしのせい…?」
「違う。自惚れるな」
即答で返された。
凛とした瞳が、不機嫌そうにわたしを見る。
「てめぇの為に怪我するなんざ、死んでも御免だ」
「……」
…じゃあ、なんであの時、わたしの伸ばした腕を取ったんだ。
それでも揺らがない瞳が、踏み込ませまいと壁のようなものを作っているような気がして、口を噤む。
「…わたし、人呼んでくる」
「待て」
少し神田から離れて、わたしはイノセンスに意識を集中した。
なのに、短い言葉で神田がそれを邪魔する。
「夜目も利かない上に、方向感覚も無いおまえが行ってどうする。
迷って遭難でもしたら、目も当てられねぇだろ。夜明けまで待て」
「でも!」
「…良いから、ここに居ろ」
そう言って、神田は自分の隣をわたしに示した。
座れ、ってことだろうか。
おずおずと隣に座って、わたしは呟くように告げた。
「…ごめん」
「しつこい。おまえの為じゃねぇって言ってんだろ」
「…でも…ごめん」
それでも謝るわたしに、神田は苛立たしげに舌打ちした。
「…おまえ、やっぱり早死にするタイプだな」
「なにいきなり!?」
「…他人の為に苦しむ奴は、大抵早死にする」
そう語る声音の固さに、わたしは顔を上げた。
神田は正面を見据えていて、わたしの方を見てはいない。
「…綺麗な奴ほど先に逝く。そういう世界なんだよ、ここは」
「………」
思わず、わたしは黙り込む。
…戦場、か。
自覚も実感もある。だけどまだ、わたしにはわからない。
――人の死、なんて。
「…ガキの頃にな。俺の初任務で同僚が死んだ」
「え…」
「俺より3年早く入団した奴だった。歳もあっちが上だったな」
淡々と語られるそれが、神田の昔話だということにようやく気付いた。
死んだ同志を語るには、感情の薄い口調と表情。
「…あの馬鹿、俺を庇いやがったんだよ」
「……」
「…俺は、甘い考えで奇麗事を言う奴が嫌いだ。そういう奴は、俺より先に死ぬ」
――その言葉に、わたしは理解する。
多分、一度や二度ではないのだ。きっと、何度も庇われ、遺され、その度に苦しんだ――。
「…神田」
「…それでも、俺は生きる」
強く呟き、神田は自分の左胸を押さえた。
そこに何があるかを、わたしは『知っている』。
「誰が死のうが傷付こうが――俺は死ねない」
――揺らがない瞳を、哀しいと思うのはなんでだろう。
「…勝手に殺すなよ」
「?」
ぽつりと呟いたわたしに、ようやく神田が視線を向けてきた。
「…死なないよ、わたしは」
告げた声が、自分でも驚くほど強かった。
「格好悪くても良いもの。わたしだったら、死にたくないから足掻くよ」
「……」
「誰かの為になんて、死んで堪るか」
遺された『誰か』の痛みがわかる、なんて言えない。
だからこれは、崇高な意志による決意じゃない。
わたしは平和な世界で生きてきて、痛いのも苦しいのも嫌だ。ただ、それだけ。
「誰かの役に立ちたいとは思うよ。
だけど、誰かの為に死ぬなんて出来ない。わたしはそこまで強くなれない」
神田は何も言わない。
ただ、無視されてるわけじゃない。
だから、わたしはその視線にこう応える。
「…神田」
「…なんだよ」
「明日からさ。特訓、頑張るよ」
微かに、神田が目を瞠る。
わたしは、軽く肩を竦めて笑った。
「生き残る為なら、なんだってやってやるわ」
「……」
――あの『訓練』は、そういう意味なんでしょう?…と。
視線で語ると、神田は目を瞬かせてから、呆れたように小さく息を吐く。
「単純。…おまえ、相当の変わり者だな」
「失礼な!」
「貶しちゃいねぇよ。…誉めてもねぇけどな」
そう言うと、神田は岩壁に背を預けたまま目を閉じた。
「…少し、眠る。何かあったら起こせ」
「え? ちょ、ちょっと待ってッ」
「…なんだよ」
「そんな薄着で寝ちゃダメだよ、風邪引くよ!
ほら、団服返すからっ」
わたわたと団服を脱ぎ掛けたわたしは、ぺちっと軽く額を叩かれた。
「いい。着てろ。…おまえの方が風邪引くだろ、軟弱者」
「一言余計! 心配してんのにッ」
「…おまえが風邪引いたら、リナリーとかがうるせぇだろうが」
…それは、まぁ、確かに。
ラビなんか別に心配しなさそうだけど、リナリーは確実に怒るな。
「…じゃ、せめて枕を提供するっ」
「は?」
怪訝そうな神田に、わたしは崩した自分の脚をぽんぽんっと叩いた。
「はい、膝の上に頭乗せて!」
「………馬鹿! 出来るかそんなこと!」
「なんでよ!? 女の膝枕は男のロマンだろ!?」
「おまえの発想は基本的にどっかズレてんだよ自覚ねぇのかよ!?」
「なんで文句言われんのわたしが! 往生際が悪いよ、さっさと頭乗せろよ!」
無造作に結ばれている髪を解いてやりながら、わたしは神田を引き倒した。
熱は徐々に上がっているらしく、神田はわたしを振り払う気力もないのかくたりと倒れ込んできた。
「………色気のいの字もねぇな、おまえは」
「最高に失礼だねこのヤロウ。良いから寝てろ」
右手で目を覆ってやると、小さく息を吐いてから、神田はようやく大人しくなった。
なんだかんだ言って、結構限界いっぱいいっぱいだったんじゃないだろうか。意地っ張りめ。
「…ったく、一言多いんだっての…」
寝入ったことを確認してから、わたしはため息と共に呟いた。
額に手を触れると、さっきよりも熱くなっている。
「…奇麗事…甘い考え…自分より先に死ぬから嫌い、か」
思いもしなかった。
彼の抱える傷なんて。
「…結局…あんたは優しいんだよ、神田」
――誰が死んでも、誰が傷付いても、自分は生きると。
その言葉は、すべての死を背負うという意味に、他ならない。
「…ごめん。明日からは真面目に頑張るから」
わたしは死なない。
わたしの死は、絶対に背負わせない。
「…だから、もう、あんな顔しないでよ…」
――どこまでも強く、揺らがない瞳が…
こんなにも哀しいと思ったのは、初めてだった。
不器用なあなたと、卑怯なわたし。
To be continued?
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