――指先が、凍えてる。
冷たく凍えた体。
なのに、下肢が熱い。
どくどくと脈打つ鼓動。
他の音が遠い。
視界に霞が掛かったように、周囲の光景がよく見えない。
行かなきゃ、と。
そう思うのに、体が言うことを聞かない。
早く、早く。
リナリーが泣いてるの。
神田にもすぐに行くって言った。
ラビだって、すごく心配してる。
――アレンと約束したの。一緒に生きるって。
だからまだ、休めない。
動いて、お願い。わたしの体でしょ。
どうして、わたしの思い通りにならないの。
お願い…
お願い、神様。
今は、あなたの存在を信じるから。だからどうか、
――――もう一度立ち上がるちからを、わたしに下さい。
『こら。ぼくをみなさい』
無機質な声が、破壊され尽くした広間に響いた。
踏みつけられたリナリー当人は、それには構わず、必死にイノセンスへと腕を延ばしていた。
「…っ!!」
動くに動けず、ルベリエは息を呑む。
第五研究室で戦っていたエクソシスト達の安否が不明の今、リナリーは現状を打破する唯一の希望と言って良い。
その希望が今、絶望に文字通り踏み潰されようとしているのだ。
『こら』
一向に自分に構わないリナリーに、レベル4の声音に不機嫌さが滲み始めた。
このままでは、間違いなく彼女は殺される。
さすがのルベリエも、顔から血の気が引くのを感じた。
…その、瞬間。
何かを察知したのか、レベル4は上空を仰ぎ見た。
その動作とほぼ同時に、真白の道化が降り立つ。
金のゴーレムを従え、道化の仮面に素顔を隠した、目に鮮やかな白。
それはレベル4を薙ぎ払い、リナリーを護るように地に降りた。
「! アレン=ウォーカーか!!」
頷くことすらもせず、まるでマリオネットのように機械的な所作で、アレンは空を舞うレベル4を見上げた。
『あれ? きみ、そんなに動けるなんておかしいよ』
心底不思議そうに首を傾げるレベル4に、彼は答える代わりに剣を構え直した。
『うごけないくらいいためつけたのに』
そんな言葉と同時に、レベル4は凄まじい蹴りを構えるアレンに叩き込んだ。
手すりを突き破り、構えた大剣ごとアレンの体は勢い良く吹き飛ばされる。
「アレンくん!!」
轟音を立てて、アレンの体は壁へと激突し、コムイのすぐ傍に落下する。
「アレンくん…っ」
荒く呼吸を吐くアレンに、コムイは慌てて駆け寄る。
その体を抱き起こした瞬間、べったりと手に付着した液体に、コムイは目を瞠った。
「…はぁ…は…」
「この傷…こんな状態で、どうやって動いて…!?」
言葉を失うコムイの前で、アレンの体がゆっくりと起き上がった。
剣へと腕を伸ばす彼の体からは、イノセンス発動時の燐光が立ち登る。
(! この《神ノ道化(クラウン・クラウン)》は身に纏う鎧のイノセンス…ッ)
思い至った事態に、コムイの顔から血の気が引いた。
そして、彼ならば何の躊躇いもなくそうしてしまうのだろうと、容易に想像がついてしまう。納得出来てしまう。
「動かせない体を、イノセンスで無理に操ってるのか!!」
黙して語らないのは肯定の意なのか、それとも喋る余裕がないのか。
…あるいは、その両方か。
「アレンくん!?」
その状態でなお、アレンはレベル4へと向かう。
苦い思いでそれを見送ったコムイは、視界の端に強い光を感じて振り返った。
「リナリ…ッ、《黒い靴(ダーク・ブーツ)》と共鳴し始めたのか…!?」
レベル4の興味がアレンへ向いたことで、リナリーはイノセンスへ到達したようだった。
イノセンスを中心に、強い光がリナリーを包み込んでいく。
「――行ってやれ…コムイ…」
耳に届いた言葉に、一瞬、コムイは一切の動きを止めた。
「あいつはお前の為に生きてる…わかってんだろ…」
傷を押さえ、荒く呼吸を吐きながらラビはコムイを見つめ、呟くように言う。
「そばにいてやれよ。兄貴だろ…」
「……ッ」
静かなその言葉に、コムイはきつく目を閉じた。
眼裏に浮かぶのは、《イノセンス》という重い足枷に苦しみ続けた、最愛の妹の姿。
その苦しみから、重い足枷から、彼女を救う術をコムイは持っていない。
それでも、傍に居ることは出来るはずだと、それだけは出来るのだと、そう信じた。
――だが、結果はどうだろう。
今、最愛の妹は命を懸けて戦う力を再び得ようとしている。…護る為に。
「…ボクは、どうしてやればいいのか…わからないんだよ」
「何を…いまさら…」
ゆらりと背後で立ち上がる気配と、苛立ちを含む低い声。
「言ってやがるこのシスコン!!!」
コムイが振り返るより先に、そんな怒鳴り声と同時に彼は思いっきり背後から蹴り倒された。
「聞いてりゃいちいちめんどくせぇ」
「かっ、神田く…」
「テメー、何の為に教団に入ったんだよ」
呆れたように言われた、言葉。
――『何の為に』。
たったひとりの肉親を…最愛の妹を、守る為に。
抗えない運命に繋がれた彼女を、その心を守る為に。
――笑顔で「おかえり」と、彼女を迎える為に。
+++
――霞みかけていた視界が、晴れていく。
手の中にあるのは、拒絶し続けた《ちから》。
――神様が大嫌いだった。
私からすべてを奪った神様。
私の大切な人達を苦しめる神様。
大嫌いだった。
憎んでいた。
その楔から逃れたかった。
兄さんが来てくれて、教団は私の家になった。
大好きな人達が増えた。
大切な家族が増えた。
…それでも、神様を好きにはなれなかった。だけど。
「もう…嘆くのは、疲れたよ…」
私はもう、ベッドで泣いてるあの頃の弱い女の子じゃない。
兄さんや、みんなが…が、いてくれる。
それだけで、悪夢のようなこの《世界》で戦える。
「イノセンス…私のこのキモチが、みんなを守る力に変えられるなら…」
例えその途が、辛く険しくても。
それでも、傍に居てくれる人がいる。
一緒に歩いてくれる人がいる。だから、
「…私は、あなたについて行くわ。
全部終わるその日まで、どこまでも」
――でも。でもね。
きっと最後には…
「……」
「……ッ」
必死の顔で、駆けつけてくれた兄さんと目が合った。
あの時と、同じ。
…あなたの言うことはいつも嘘がないね、。
私、ひとりじゃなかった。
いつも辛くて苦しい時、必ず兄さんが傍に居てくれた。
だからね、兄さん。
私は決めているの。
――きっと最後には、兄さんの元に帰って来るって『約束』するよ。
「『いってきます、兄さん』」
だから今は、お願い。
「いってらっしゃい」と言って。
+++
――視界に広がったのは、闇だった。
おかしいな。
わたしは、ヘブラスカの間にいたはずなのに。
目の前には、ただただ広がる、闇。
その異常な光景に、私は自嘲気味に笑う。
「…わたし、死んだのかな…」
『――いいえ、まだ』
「!!」
まさか応えが返ってくるとは思っていなくて、驚いて振り返った。
そこに佇むのは、ひとりの女。
見覚えのない、ひとだった。
「誰!?」
『そんなに怖い顔をしないで、《イヴの娘》』
「な…ッ」
その名称は、ノア達しか呼ばない。
では、この女はノアか。
――いや…でも、わたしの右手の傷痕は、何の反応も示してない…?
『私は《クロニカ》。個にして全、全にして個である意識の集合体。
貴女達が《イヴの娘》と呼ぶ存在の原点…』
困惑するわたしに、彼女は穏やかに語りかけてくる。
とても、奇妙なことを言っている。――《イヴの娘》の、原点だって?
『…正しくは、貴女の「先代」かしら?』
「…先、代…? どういうこと…?」
「……」
訝しげに聞き返したわたしに、彼女は一瞬だけ瞑目した。
綺麗な瞳が、真っ直ぐにわたしを見据えてくる。
『つまらない昔話で良ければ、お話しして差し上げましょう』
そう言って、《クロニカ》と名乗った彼女は微笑って小首を傾げた。
そして、どこから現れたのか、椅子にゆったりと腰掛ける。
『――むかしむかし、あるところにひとりの少女が居ました。
彼女は平凡で退屈な毎日を送っていましたが、ある日を境にその日常は一変します』
まるで、小さな子供に母親が絵本を読み聞かせるように。
彼女は穏やかに、朗々と語りだした。
『少女は、大好きな《物語》の世界に閉じ込められてしまったのです――』
「え…」
思わず、目を瞠る。
――「物語の世界に閉じ込められる」。まるでわたしのようじゃないか…?
『初めこそ喜んだ少女でしたが、その《世界》は彼女が思い描いていたものとは違いました。
その《世界》は戦争をしていて、彼女はそれに巻き込まれてしまったのです』
ドクドクと、鼓動が脈打つ。
なんだろう。この、不安のような安堵のような、相反する感情は。
『なにより、その《世界》は少女が知る《物語》よりも、ずっとずっと昔の時代でした。
元の世界に帰りたいと嘆く少女。しかし、帰ることが出来ません。何故なら彼女には、《役割》があったから』
ずっと、昔…?
帰りたいと願った少女は、一体誰…?
『やがて激化していく戦いの中、少女は自分を保護し、護ってくれる者達を《仲間》だと思うようになりました。
恐ろしい力を持ち、人類に仇成すモノ。しかし彼らもまた、温かなヒトの心を持っているのだと知ったから…』
「…それって…」
彼女が語る、それは。
彼女が《仲間》だと語る、それって――
『少女は、《仲間》と呼ぶ者達のひとりと恋をします。それこそが彼女に課せられた《役割》。
……ですが、例え定められた恋でも、誰かに決められた愛でも、良かったのです。だって…』
わたしは、思わず息を呑んだ。
語る彼女の表情が、酷く穏やかで。
語る声音が、とても、とても――優しかったから。
だけど、同時に恐ろしかった。
異世界から喚ばれた少女の、《役割》。
――決められた男を愛し、結ばれること…それが、《役割》?
『…ただひとりの彼を愛し、その子を生むことが出来た。
それだけで、少女は誰よりも幸福だったのですから…』
「…あなた…?」
目を瞠るわたしの眼前に、彼女は手を差し出してきた。
真っ白な、綺麗な手。
握手を求めるように、差し出された右手には――聖痕に似た、傷痕。
『――ここに、その資格を《継承》します。…新世代の《聖女》。
《現実》と《物語》を結ぶ唯一の《媒体》よ。
貴女がその《資格》を失わない限り、この《世界》は《現実》足り得るでしょう』
触れてきた手は、冷たくも温かくもない、不思議な感覚がした。
呆然と彼女の手を見つめるわたしに、表情を変えずに彼女は、告げる
『…もっとも、ここで死んでしまえば《資格》は失われてしまうでしょうけれど』
――死ぬ?
わたしが…?
+++
『……っ』
「イノセンスを…」
意志があるかのように、《黒い靴(ダークブーツ)》は液体となった。
それが当然であるかのようにイノセンスを飲む込んだリナリーに、周囲が示した反応はどれも似たようなものだっただろう。
「リナ…リ…ッ」
駆け寄るコムイの手が、リナリーに届く前に彼女に異変が起こる。
「……っ」
「!?」
何かの衝撃を受けたように、華奢な体が倒れ込む。
慌てて抱き起こしたコムイの腕の中で、苦しげに呻くリナリーの両足首から鮮血が吹き出した。
「う…あ…っ」
「出血…!?」
十字の傷。
そこから吹き出した血は、止まることなく流れ続ける。
「拒絶反応か…っ!? リナリー=リー…!」
苦痛に喘ぐリナリーの様子に、ルベリエは厳しい表情で少女の名を呟く。
瞬間、彼のすぐ傍に重い衝撃がぶつかってきた。
砂埃が晴れると、そこに膝を着いていたのは真白の道化だ。
「!? アレン=ウォーカー!!」
「――離れろッ」
すぐ傍で聞こえた声に、アレンは怒鳴り返す。
そんな彼に向かって、レベル4は嘲笑った。
『くははははっ、もっともっと♪ えくそしすと』
無邪気に繰り出される、恐ろしいまでの力。
それに対し、無理矢理立ち上がったアレンは退魔の剣を構える。
「あああぁああぁあッ!!!!!」
衝撃の重みに耐える為か、悲鳴にも近い怒号が上がった。
衝撃波に押されて、無理に動かしている体が軋む。
傷ついた臓腑が悲鳴を上げて、血液がじわりと逆流してきた。
「ぐ…」
衝撃に腕が痺れ、重みに体は踏ん張りきれず後方へと下がっていく。
押し負けようとしたその瞬間、アレンは背に掛かる支えに視線を動かした。
「!」
「ふんばりやがれ…っ」
「今はお前しかいねーんさ…っ」
左右それぞれから、神田とラビは片手でアレンの背を支え、もう片方の手を退魔の剣に添える。
「ぐ…っ」
大剣を握るアレンの腕に、再度力が込められた。
「おおおおおおおぉおおおおッ!!!!!」
響く轟音は、《希望》と《絶望》、どちらの音だったのか――
ただ、辺りは光と静寂とに、包まれた。
+++
「!! アレンくん…っ、神田くん、ラビ…ッ!!」
衝撃波に吹き飛ばされた3人の姿が、視界から消えた。
コムイの位置からでは、彼らの姿を確認することは出来ない。
「ヘブラスカッ、リナリーを診るんだ!」
さすがに焦りの色を濃くさせながら、ルベリエはヘブラスカを仰ぎ見る。
状況下では、もはやリナリーがイノセンスとシンクロ出来なければ望みは無いのだ。
『リナ…リー…』
「ヘブラ…」
『まて…今…診る…足には触れるな』
コムイの言葉を遮り、ヘブラスカはリナリーへ手を伸ばした。
『飲み込むなんて…っ、リナリー…』
「イノセンスが…液体化したんだ。勝手に。
まるで、『飲め』といっているように…」
前例の無いことだ。
そもそも、装備型が寄生型になる可能性があったことすら、100年の歴史の中で判明していなかった。
リナリー=リー。
アレン=ウォーカー。
そして、=。
異例を示した者が、同一の時代に3人。
これは偶然なのか、それとも――、
「イノセンスがリナリーの体内に宿ったのかね?
どうなんだ、ヘブラスカ!」
ルベリエに、対するヘブラスカは答えない。
彼女自身も、酷く狼狽している雰囲気が伝わってくる。
「血が止まらない…血が…ッ」
未だに止まる気配のない出血に、コムイはきつく目を閉じた。
この出血が拒絶反応の結果なのだとしたら、やがて致死量に達するだろう。
確証の無い『可能性』の為に、たったひとりの最愛の妹を失うのだ。
神に祈れば良いのか、神を憎めば良いのか、コムイにはわからなくなっていた。
ただ、耐え続ける妹を、抱き締めるくらいしか、出来ることがない。
『!!? どういうことだ…っ』
「どうした、ヘブラスカ!?」
『…無い…飲み込んだイノセンスが…リナリーの体内から感じられない…!!』
予想していなかった言葉に、コムイは顔を上げた。
「なに…っ? そんなバカな」
『無いのだ…体内には無い。どこに…』
ふたりの困惑の声に、リナリーが僅かな反応を見せた。
「リナリー」
コムイの呼び掛けに、リナリーは身じろぐ。
その瞬間、予期せぬ事態が、起こる。
「!? リナリーの、血液が…」
「!?」
『!! まさか…』
硬質化した血液は、徐々に形を形成し始めた。
それはまるで、頭持たぬ女神《ニケ》のような、姿。
「まさか…そこに…?」
「……」
驚愕に目を瞠るコムイの腕の中で、ゆっくりとリナリーは目を開けた。
そして、躊躇うことなく目の前のそれへと手を差し伸べる。
「私の覚悟…受け取ってくれた…?」
決意に応えようとしているのだろうか。
リナリーの血液によって構成されたそれは、付き従う従者のように彼女の足下へと頭を垂れた。
「まさか…っ、リナリーの血だけで、イノセンス自ら武器化するつもりか!?」
強い光を発しながら、頭を垂れたそれの形が変化していく。
「――発動…!」
まるで脚甲のような姿を象ったそれこそ、《黒い靴(ダーク・ブーツ)》の新たな形だった。
神様、あなたは誰よりも優しくて、残酷だ。
To be continued?
気に入っていただけたら、ぽちっと押してあげてください。コメントは入れなくてもOKです。