――ほんの少し、不安はあった。
隠せと言われた、右手の傷痕。
あまりにもクロス元帥が真剣な表情で言うから、怖くて巻かれた布が外せない。
痛みはない。
もう血も出ていない。
だけどどうしてだろう。この、疼くような不快な感覚。
心がざわめく。
胃の奥が冷たく冷える。
握り締めたアレンの手だけが、熱を持っているような錯覚。
《方舟》のシステムはよくわからないけど…、
今、目の前にあるこのドアを開ければ、そこは帰りたいと願い続けた教団(ホーム)なのに。
なのに、どうしてこんなにも「怖い」のか。
帰りたいと願ったその場所へ戻ることが、どうして。
「? どうしたんですか」
「え?」
立ち止まり、振り返ったアレンの問いに、わたしは一瞬言葉を失った。
それをどう受け取ったのか、他のみんなも一斉にわたしを見る。
「、怪我が痛むの? 大丈夫?」
「う、ん…わたしは、全然…」
「何言ってるの、背中から思いっきり瓦礫に叩きつけられてたじゃない!
ちゃんと手当は受けたの? は普段は大袈裟なのに、こういう時は無理するから…ッ」
「だ、大丈夫! 大丈夫だから! ちょっとリナリー落ち着こう!?」
今にも泣きそうな表情で怒るリナリーを宥めながら、わたしはこっそりため息を吐いた。
立て続けに起こる過酷な状況がそうさせたのか、リナリーの過保護っぷりがパワーアップしてる気がする…。
「だって、! ただでさえ打たれ弱いのに!!」
「うわー…ごめんね、武術方面の才能皆無で…」
「今更だろ。最初から才能ねぇよ」
「わかってるからいちいち言わないでッ!!」
神田は至極真面目に言うから嫌なんだよ!
自覚はちゃんとしてるっての!!
「良いんですよ、は。元々戦闘向きじゃないですし」
「そうそう、背伸びしたって良いことねぇさ」
「あんたら揃いも揃ってなんなんだーッ!!」
自分で充分わかってんのに、なんでわざわざそんなこと言われなきゃいけないのかなッ!
しかもみんなして! なにこれ、新手のイジメ!?
「ぎゃーぎゃーうるせぇガキ共だな。戻るんならさっさと開けろ」
「なんですか、師匠からそんなこと言い出すなんて珍しい」
「黙れ馬鹿弟子。良いからさっさとしろ」
一言で斬って捨てると、クロス元帥はため息を吐くように紫煙を吐き出した。
そんな元帥の反応に小さく息を吐き、アレンは扉に向き直る。
そしてゆっくりと、ドアノブが回された。
――視界に広がる懐かしい風景。
その先にある、懐かしい面々。
泣きたいような、微笑いたいような、そんな気持ちに、なった。
「おかえり!」
笑顔で出迎えてくれたコムイさんを初めとする科学班のみんなの元へ、アレン達が駆け寄って行く。
その後に、重い足取りで続こうとしたわたしは、クロス元帥に肩を掴まれて立ち止まる。
――反射的に右手を押さえたわたしに、彼はただ、無言のまま小さく頷いた。
医療班に連れて行かれたみんなから引き離され、わたしは別の部屋に居た。
周囲に人は居ない。ただ目の前に、コムイさんがいるだけだ。
コムイさんは無言でわたしの右手の傷を看て、皮膚に付着した乾ききった血を拭き取る。
赤黒く乾いた血の下から現れたのは…まるで刻印のような、傷痕だった。
「……」
見覚えがある形の、傷痕。
それは、わたしには――エクソシストには、あってはならない傷。
指先が冷たく凍えるような錯覚が、した。
「…クロスの術式が編み込まれている。これなら大抵のセキュリティは誤魔化せるはずだよ」
「………」
「極力外さないで。その傷が何を意味するのか、ボク達にもまだわからないから…」
「…はい」
梵字を刻まれた、指先の出るグローブ。
自分の右手を覆うそれを見下ろしながら、わたしは小さく頷いた。
「ちゃんの怪我は、左足捻挫と打撲が数ヶ所、あとは細かい切り傷、擦り傷かな。
比較的軽傷だけど、だいぶ疲労が溜まってるからしっかり休んで。イノセンスの使用も禁止!…だから、」
そこで言葉を切ったコムイさんを、わたしは見上げた。
視線を上げた先にあったコムイさんの顔に浮かぶのは、どこか哀しげな表情。
「…みんなの病室には、行っちゃダメだよ」
「…え…」
「ボクはね、ちゃん」
呟くように言いながら、コムイさんはそっとわたしの右手を取った。
その手が震えているように見えるのは、多分わたしの気のせいなんかじゃない。
「君が、ずっとみんなを守れる力を…戦う力を欲しがっていたのを、知っていたよ」
「…コムイさん」
「ちゃんのそういうところは、少しリナリーと似てるね」
その言葉に、わたしは緩く頭を振った。
わたしがリナリーと似てる? そんなわけがない。
わたしは、あんなにも純粋で綺麗な願いなんて、抱けない。
…もっと、我が儘で身勝手だ。
「…せめて今だけは、他の誰かの為じゃなくて自分を大事にして。良いね?」
「…コムイさん、わたし…」
――誰かの為に何か出来るほど、わたしは強くなんか無い。
今だって、自分に何が起こっているのか分からなくて、不安で堪らない。
だからわたしは、ただその不安を和らげたい為に、ひとりで居たくないだけだ。きっと。
「…わたしは、どうなりますか」
「ちゃん…?」
――何を期待して、わたしはこの言葉を吐くのだろう。
「…《聖痕》を持つノアとして、またはそれに関わる存在として、裁かれますか…?」
「――そんなことは、ボクがさせない」
はっきりと言われた言葉に、安堵しているわたしは卑怯だ。
誰かが守ってくれると、そう思っている自分が酷く醜い。
「その傷は隠し通す。アレンくん達にも隠すんだ、良いね?
ちゃん、君達エクソシストを守るのが、室長であるボクの役目なんだよ」
嫌われるのが嫌で、見捨てて欲しくなくて、必死に考えて言葉を探して。
わたしを、わたし達を守ってくれるというコムイさんの言葉に、安心した自分が許せなかった。
思えばわたしは、いつだって誰かに依存して生きてきた。この《世界》に来る前から。
誰かの庇護の下で、守られていたことにすら気付かずに。
それがわかったから、強くなりたいと思ったし、そう在るべきだとも、思った。
大した力は持っていないけれど、わたしはみんなより年上だから。
だからせめて、弱音なんて吐かないようにしなければいけないと。
「大丈夫…誰にも君を否定させたりなんて、しない。だから…」
俯くわたしの頭を、コムイさんはくしゃりと軽く撫でた。
その優しい仕草は、リナリーに似ている。
似ていない兄妹だと思っていたけれど、実は良く似ているのかも知れない。
「…だからもう我慢しないで、泣いて良いんだよ」
「…ッ…」
優しく諭すように向けられた言葉に、ぐっと唇を噛む。
だけど堪えきれずに嗚咽は漏れ、溢れてきた涙はもう、わたし自身にも止められなかった。
――そして、気付く。
色々な理由を付けたけれど、わたしはただ、…泣きたかっただけなんだ。
『普通』ではなくなってしまった自分が怖くて、ただ――泣いてしまいたかっただけなんだ、と。
+++
「ふたりとも、外傷より疲労が酷いようですわね。
一晩休息をしっかり取れば、すぐに日常生活に支障が無い程度には回復するでしょう」
医師からの診断結果を告げる婦長の言葉に、言われた私達より深く安堵の息を吐いたのは兄さんだった。
「良かった…」
脱力したように、兄さんはベッドの上に崩れ落ちた。
心配のあまり溜まった心労と、連日の徹夜明けだ。力尽きるのも無理はない。
そんな風に心配を掛けてしまったことが心苦しい反面、純粋に嬉しかった。
「みんな無事で良かった…特にリナリィィィィッ!!」
「ちょ、兄さん? いきなり泣かないで!」
唐突に叫ぶと、兄さんはベッドに突っ伏したまま大泣きし始めた。
あまりの豹変ぶりに呆れてため息を吐き、私は起き上がる。
「う…うぅ…っ…うぅう…」
「…もぉ。泣き過ぎよ、兄さん」
「だって…リナリーの綺麗な髪がっ、世界一の美髪が…っ」
「恥ずかしいこと言わないでっ」
本気で言ってるんだろうか。むしろ心配するのはそこなのか。
髪を誉められるのは嬉しいけれど、世界一とか美髪とか、その大袈裟な表現はやめて欲しい。
「いい加減邪魔ですわ、室長。これ以上ベッドを汚すようでしたら出ていってくださいまし!」
「婦長ひどぃぃ~~~…ボクのドコが汚いのよぅ」
「顔です!」
言い切った。
相変わらず、この初老の婦長は強い。
黙らされた兄さんが、ますますシーツを涙で濡らしてるし…。
「仕事いっぱいあるでしょ、兄さん」
「うっ」
その一言がトドメになったのか、ますます涙が止まらなくなったようだ。
まったく、仕方のない兄さん。全然変わらないんだから。
「元気になったらコーヒー入れに行くから」
「…うん」
自然と笑顔が浮かんで、そんな言葉が零れた。
兄さんは穏やかに微笑んで、私の髪をくしゃりと優しく撫でてくれる。
その仕草があまりにも優しくて、なんだか泣きそうになった。
「…あ、あの、兄さん? は?」
「………」
思わず照れてしまったことが恥ずかしくて、無理矢理話題を変える。
――瞬間、兄さんの表情が強ばったのを、私は見逃さなかった。
「…ちゃんはね、怪我の具合が酷くて、特殊な治療を受けている。だから一般病棟には来れないんだ」
「え…?」
「あ、でも大丈夫だよ。すぐ治すからね。だからリナリーも、心配しないでゆっくり治しなさい」
「……うん」
――兄さん、今、私に何か隠し事をした…?
の名前を出した瞬間、一瞬だったけれど、兄さんは表情を変えた。
私達の中で、の怪我は比較的ましな方だった。なのに、特殊な治療が必要…?
この、一般病棟では、治療できないの…?
疑問が頭を巡る中、立ち上がった兄さんは、どうやら仕事に戻るらしい。
かと思ったら、何かを婦長に差し出していた。
「あとこれ、ボクの子守唄入り抱き枕作ったんだけど…」
「必要ございません」
一言で斬って捨てられた。
兄さんを象った人形が、兄さんの声で延々と変な唄を唄っている。
………うん、それ、逆に眠れないわ。兄さん。
それを聞いた婦長が、強引に兄さんを人形ごと病室の外へ押しやった。
ああ、もう…自業自得だわ、それ…忙しいくせに、そんなもの作ってないで少しでも休んでくれれば良いのに…。
「おっ、おやすみリナリーっ」
「はいはい」
返事を聞く前に、兄さんは病室から追い出されてしまった。
まったくもう、恥ずかしいことばっかりして。
「ふふ…」
「うるさくてごめんね、ミランダ。寝なきゃいけないのに」
「うふふ、リナリーちゃんたら」
「な、なに?」
どこか微笑ましいものを見るように、ミランダが穏やかな微笑を浮かべていた。
「室長さんに会えて良かったわね。とっても嬉しそう」
言われた言葉に、なんだか恥ずかしくなって私は俯く。
ミランダの言うとおりだ。兄さんに会えて、本当はすごく嬉しい。
だって、一度は本当に、帰れないことを覚悟したんだもの。
でも…
――その嬉しいという気持ちとは裏腹に、私の心は、どこか晴れないでいた。
「…ねぇ、どうしてだけ病室にいないの…?」
ポツリと呟いた言葉は、私の中に根付いた数々の疑念の原点。
――が、居ない。
私の傍に、今、が居ない。
不安で堪らなくなる。
教団に戻ってきた瞬間に、ひとりだけどこかへ連れて行かれてしまった。
はどこ? 今、いったい何をしてるの?
兄さんがを傷つけさせるわけがない。それだけは信じてる。でも、だけど…
「リナリーちゃん…ちゃんの怪我は酷いから、特別な治療が必要だって、さっき室長さんが…」
「…本当に…そう、なのかしら…?」
誰も彼もが、の『何か』を隠そうとしている。
私の知らないところで、が苦しんでる…。
「…私、は…」
大切な兄さんの為に、掛け替えのない仲間の為に、――大好きなの為に。
無力な私に、いったい何が出来るだろう…?
+++
…自分が気が短い方だということは、充分自覚していた。
だが、大抵のことには耐え得る忍耐はあったはずだ。
……そのはずだったが。
「~~~ッ!!」
病室中に響き渡る奇怪な音に、忍耐にも限界が来る。
「ちょっとちょっと看護婦さんーーーーーーっ!!」
思わず拳を握り締めた俺が動くより先に、ラビが悲鳴を上げて跳ね起きた。
…こいつにしては耐えた方か。結局同じくらいうるさいが。
「クロちゃんの腹がうるせェさーーーー!! ねむれねぇぇーーーーーっっ」
「私は聴覚が良い分キツイ…」
「困ったわねェ。何か食べてもらいたくても、起きないことにはどうにも…」
…
……
………つき合いきれるか。
シーツをはね除け、そのまま寝台から降りた。
冷たい石畳の感触に顔をしかめつつ、枕元に置かれたガウンを適当に羽織る。
「どこ行くんさ? ユウちゃん」
「こんな所で寝られるか。自室に戻る」
「コラ! ダメだぞ、神田」
「うるせェ」
口数が少ない割に世話好きのマリの言葉にそれだけ返して、俺は病室のドアノブに手を伸ばす。
瞬間、勝手に扉が開かれた。
「マーくんの言うこと聞きなさい。ユーくん」
…
……
………なんでこう、この人は神出鬼没なのか。
当然のような顔をして花束を抱えてドアの前に陣取る、認めたくはないが俺の師は至極真面目な顔で言った。
だが、このオヤジは真顔で馬鹿なことを言うのがデフォルトだ。
「…どいて下さい」
「可愛い息子達のお見舞いに来たんだよ。ベッドに戻りなさい、ユーくん」
「息子じゃねェし、教団に帰った途端その呼び方になるのやめて下さい」
「弟子は我が子も同然じゃないか。照れないで家に居るときくらいは私に甘えておいで」
「諦めろ、神田。師匠はこういう人だ」
わかってる。
わかってるが、許容出来るかどうかは別問題だ。
「…おっ、俺は…っっ」
六幻が無いのが、心底悔やまれた。
我慢の限界に達して、俺は握り締めた拳を震わせる。…当然、怒りで。
「あんたのそういう所が大っっっ嫌いだーーーーっ!!!」
「キャー! 暴れないでくださいっ」
「こら、神田っ」
看護婦やマリの声がうるさいが、そんなものはどうでもいい。
なんとか師匠を押し退けて、後ろ手にドアを叩きつけるように閉めた。
……無駄に疲れる。
「くそっ、なんだってあいつらはいつもこう…ッ」
「きゃあっ!?」
「は?」
苛立ちに、思いっきり壁を殴りつけた瞬間に、上がる悲鳴。
聞き慣れた声に視線を向ければ、よく見知った奴が驚いたような表情で突っ立っていた。
「…?」
「か、神田…」
普段なら文句のひとつも言うような奴なのに、今日に限って大人しい。
庇うように自分の右手を握り締めながら、その場に硬直している、俺と同じ黒髪の女。
あまりにもらしくない態度で、は俺の前に立ち竦んでいた。
+++
行くべきか、行かざるべきか。
延々悩んで、埒があかないからとここまで来ちゃったけれど…
…いや、まさか神田が、こんな不機嫌な顔で病室から飛び出て来るとは、予想外だ。
「何やってんだ、病室の前で。…モヤシなら居ねェぞ」
「え、そうなの…じゃなくて! ア、ア、アレンは関係ないし!
か、神田こそどこ行くのよ」
「部屋に戻る。…ここじゃうるさくて寝てられねェ」
そう答えて、神田はいつものように苛立たしげに舌打ちした。
…うるさい? アレンが居ないのにか??
いや、そもそも、アレンもそうだけど神田もなんで病室から出てるんだ。
「…ちゃんと治療を受けなきゃダメじゃないの」
「俺の体のことは知ってるだろうが。怪我ならとっくに」
「そんな怠そうな顔で何言ってんの」
血色の悪い顔で、何を言い出すんだろうかこの男。
確かに怪我事態は大丈夫のようだけれど、神田の治癒力にはいくつか欠点があるのを、わたしは知っている。
スッと腕を伸ばして、わたしは神田の額に触れた。
「ほら、熱っぽい。まだ治りかけでしょ!
前に捻挫ひとつで高熱出したの忘れたの?
安静にしてなさいッ」
「……………………おまえな」
叱りつけた途端に、神田は苦虫を噛み潰したような顔になった。
そして、わたしの手を払い除けて、それはもう盛大にため息を吐く。
「無防備にも程があるだろ」
「へ?」
「……俺がおまえに何したか忘れたのか」
「え」
言われた言葉に、一瞬、わたしはきょとんと目を瞬かせた。
…何か、……………あ。
一瞬だけ思考の波に沈んだわたしは、瞬間、それを思い出した。
…そ、そうだった…。
あの時はもう、とにかく色々必死で、深く考えてなかったけど…
…………わたし、神田に凄いことされて凄いこと言われてませんでしたか?
「え、い、いやっ、あれは、さッ…ええと、アレ結局なんだったの!?」
「………」
それには答えず、神田がスッと腕を上げた。
そして、わたしの頬に触れる。
「…目が赤い。泣いたのか」
「!! な、泣いてないよ!」
いきなり何言い出すんだ!!
ああ、もう…やっぱり泣き腫らした顔で来るんじゃなかった…!
「…泣いてないなら、どうしてここへ来た?」
「え…?」
「あいつに、会いに来たんだろ」
さらりと返された言葉に、思考が吹っ飛んだ。
何度か唇を空回らせ、わたしは必死に首を横に振る。
「だ、だから、そんなんじゃなくて…!」
「…好きなんだろ? あいつが」
「なっ、そっ…!?」
「おまえは不器用女だからな。あいつに対する態度見てりゃわかる」
…神田にすらバレるって…どれだけオープンなの、わたし。
いや、別に隠してることじゃないし、良いんだけど…でもなんだか居心地悪いです…。
「…まったく…なんだってよりによって、アレを選ぶんだ」
「む。そんな言い方しなくても…神田だって、アレンを『仲間』として認めてるでしょ、一応」
「そういう話じゃねぇんだよ、馬鹿」
「誰がバカか! そりゃ、アレンは悪いところいっぱいあるけど、でも良いところだってたくさん…」
…いや、まぁ、問題はその「良いところ」が短所になり得るところなんだけども。
っていうかなんでわたしは神田相手に、アレンのフォローをしなきゃいけないんだろうか。
「――なら、どうしておまえが泣いてるのに、あいつはおまえの傍にいない」
「…え…」
急に、空気が冷えるような感覚が、した。
視線を上げた先にある神田の表情は、何かに耐えるような複雑な色が浮かんでいる。
「あいつは、おまえを泣かせることしか出来ない」
「…っ違、う…それは違うよ、神田…ッ」
違う、それは誤解だ。
わたしが泣いたのはアレンのせいじゃない。
いや、泣かされたことも多々あるような気がするけど、どっちかっていうと怒ってる回数の方が多い。
「わたしが泣くのは、わたしが弱いから…ッ」
そう。そうだ。
わたしが泣くのは、わたしの心が弱いからだ。
自分を信じられなくて。
縋るものが欲しくて、逃げ道が欲しくて、だけどそんなことを言う勇気が無くて。
「本当は、泣いちゃダメなんだ。わかってる…ッ!
わたしは強くならなきゃいけないの、そうじゃないと、誰も、護れない…!」
こんなことを言って、どうする気だ。
慰めて欲しいのか。庇って欲しいのか。どこまで浅ましいんだ、わたしは…ッ!
「わたしがっ…わたしは、みんなより年上だから…ッ!
弱くてちっぽけなわたしだけど、でも、護るちからが、傷を癒すちからがあるから…だから…ッ」
「………」
必死になって言葉を紡いで、気が狂いそうだと、思った。
自分をどれだけの人間だと、思っているんだろうか。なんて傲慢な言葉だろう。
理性が止めろと足掻くのに、わたしの口から零れる言葉は止まってくれない。
「…。おまえが教団に来て一ヶ月もしない頃のことだ。
おまえと俺と、崖から落ちて一晩身動きが取れない時があっただろ。覚えてるか」
「…は? う、うん。覚えてる、けど」
黙ってわたしを見つめていた神田が、不意に口を開いた。
何をそんな、懐かしい昔話をいきなり。
「あの時、おまえは言ったよな。
格好悪くても良い、死にたくないから足掻く、と」
――ああ、言った。そんな言葉を。
その言葉は嘘じゃない。格好悪くても良い、死にたくない。だからわたしは、どこまでも足掻く。
「俺はあの時、その言葉を聞いて――おまえを、信頼に値する人間だと、思ったんだ」
「…神、田…?」
初めて、神田が明確に「信頼」という言葉を、わたしに向けていた。
決してそれを言葉にする奴じゃなかった。それはみんなわかっていたから、誰も何も言わなかったけれど。
「おまえは、『死』が恐怖だと知っていた。
おまえは、『誰か』の為に自分を殺すことの愚かさを知っていた」
静かに言葉を紡ぐ神田を、わたしは呆然と見つめ返す。
「それでも、周囲を拒絶せずに受け入れ、真っ直ぐに前を見据え続けるおまえの姿を…
――俺は、羨ましいと思ったんだ。『光』でも『闇』でもなく、おまえから強い『力』を感じたから」
神田が、誰かを…それもわたしを、羨ましいなんて思ってるとは、考えたこともなかった。
だけど逆に、それが彼の本音だとわかる。
誰かを慰めるために、優しい嘘がつける男じゃない。それは、わたし自身がよく知っている。
「…俺には、生き続ける『目的』がある。
この命は、その為だけに捧げたものだ。それでも……」
どうして、と。
口の中で、音にならない音でわたしは呟いた。
どうしてこんな、真っ直ぐな目でわたしを見るんだろう。
「――おまえになら、俺の命を預けても良いと、そう思えたんだ」
「…神、田」
「そんなおまえだから、俺はおまえにひとりの人間として、男として惚れたんだ。
なのに、馬鹿なこと言ってんじゃねぇよ。おまえは不器用で無力で、そのくせ頑固で愚直だ。それで良いだろうが」
わたしは、こんなにも卑怯で浅ましい、ちっぽけな子供なのに。
この誰よりも誇り高く、鋭利な刃物のように真っ直ぐな彼は、どうしてわたしにそこまで言ってくれるんだろう。
「わたし…」
「――応えは要らねェよ。…おまえはどこまでも真っ直ぐで頑固な女だ。そんなの俺が一番良く知ってる」
わたしから視線を外して、わたしの横をすり抜けながら、神田は反論を許さない強い言葉で告げた。
反射的に、わたしは口を噤む。
「俺は、戦場でおまえを背後に庇う気は毛頭ねぇよ。
――おまえに背を預けることはあっても、な」
それは、何よりも確かな、『信頼』の言葉だった。
「…あり、がと…」
呟くように告げたその言葉が、嗚咽に混じって霞む。
『ありがとう』、そんな言葉じゃきっと足りない。
ひとりで頑張っていたつもりだった。
わたしはみんなより年上だから、せめて心だけは強く在ろうと誓って。
だけど、「そう在ろう」と頑張れたのは、みんなが居たからだ。
神田が、ラビが、リナリーが、みんなが――アレンが、支えてくれていたから。
だから、わたしは今、ここに居る。という、ひとりの人間として。
ひとりなんかじゃないと、思っても良いんだろうか。
…もしも。わたしの右手の傷痕を見ても、神田は同じ言葉を言ってくれただろうか。
同じ様な信頼を、想いを、向けてくれただろうか――。
「…おい。さっさと来い」
「え?」
急に立ち止まって振り返った神田が、相変わらずぶっきらぼうな口調で促してくる。
意味がわからず目を白黒させていると、彼はいつものように面倒くさそうに舌打ちした。
「あいつを探すんだろ。一緒に探してやる」
ありがとう。そんな言葉だけじゃ、君から貰った全ては返せないけれど。
To be continued?
気に入っていただけたら、ぽちっと押してあげてください。コメントは入れなくてもOKです。