「――主人(あるじ)」
新たに創り出された《方舟》の中。
その部屋で、細身の美しい女性は千年伯爵に向かって口を開いた。
「やられました。転送不完全で『生成工場(プラント)』が約80%を損失。
クロス=マリアンの狙いはこれだったのかも」
彼等の目の前には、不完全な形の《卵》――AKUMAを生み出す生成工場(プラント)がある。
――否、それを生成工場(プラント)と呼んで良いものかどうか。
そこに、核となる《卵》は存在しないのだから。
『これ作るのすごいお金と汗と時間がかかるんですヨ! ムキーーーッ』
「今はアクマを増やさないといけない時期ですのに、これじゃ足止め…」
ハンカチを食いちぎりそうな程に噛みしめる伯爵に、彼女――ルル=ベルは言葉とは裏腹に冷静な口調で呟く。
その言葉を聞いているのかいないのか、伯爵が返したのは低い呟きだった。
『方舟が奪われタ…』
その声音の低さに、ルル=ベルは顔を上げた。
伯爵は嗤いながら、ビリ…ッとハンカチを食いちぎっていく。
『「心臓(ピアノ)」は無かったハズですのに、なゼ…ッ!
やはり…あの舟には「14番目」の呪いが生きていたのダ……』
クスクス、と。
微かな嗤い声の中に孕まれた、昏い感情。
『エクソシストどもニ…ッ、奴らニッ』
「……」
――それは、《怒り》だった。
『「14番」が手をかしたのでしょうかネ…ッ』
『は、伯爵タマ…?』
怯えたように呟くレロの声も聞こえていないのか、伯爵からの応えはない。
『汚らわしい…腐った羊めガ……』
昏い声音に、しかしルル=ベルは冷静に切り返した。
決して感情が気薄なわけではない。ただ、彼女は常に冷静であろうとし、それを実行しているだけだ。
「……あちら側に、方舟を操れる《奏者》が居るとするなら……」
不意に、ルル=ベルは呟くように静かに口を開く。
ピタリと、伯爵の嗤い声が止んだ。
「――やはり、《姫君》は奪還すべきでしたね。
万が一、《姫君》が知らず《契約(リアクト)》してしまっては…」
憂いるように呟き、彼女はしばし考え込む。
そして、彼女はまるで盲目者のように双眸を伏せたまま、やおら顔を上げた。
スッと礼を取り、恭しくルル=ベルは伯爵に告げた。
「――主人。私に策があります。どうぞご命令下さい」
――密かに、だが着実に、新たな《悲劇》は幕を開けようとしていた。
「バークーさーまーーーーーっっ!!」
聞き慣れた声が、遠くで聞こえた。
相変わらず、ウォンさんがバクさんを騒がしく呼びに行ったようだ。
「何だ騒々しい、叫ぶな」
「先刻消失した方舟の入り口が再び出現しました!」
そんな会話を遠くに聞きながら、わたし達は《方舟》から足を踏み出す。
短い間ではあったけれど、すっかり馴染んだアジア支部。
そこに、わたしとアレンは戻ってきた。傷だらけではあったけれど、みんなを連れて。
「ウォォーカー!!! ーーーっ!」
「あ、バクさん」
インテリとは思えないもの凄い勢いで、バクさんとウォンさんが駆け寄ってくる。
方舟の研究をしていた李佳達も、わたし達の姿を見つけて駆け寄って来てくれた。
「本部に連絡したいんですが、電話機貸してもらえませんか。
突然帰ったらみんなビックリするだろうから」
ひとり、感動の再会を物ともせずに呑気なことこと言うアレンで、わたしはリナリーと顔を見合わせて苦笑する。
もっとこう、あるだろう。感動の再会に似合う言葉が。
「ご無事でよかったです~~」
「また会えて嬉しいわ蝋花っ」
アレンと身を乗り出してきた蝋花の間に滑り込んで、わたしは彼女をぎゅっと抱き締めた。
一瞬驚いた表情をして、蝋花が苦笑混じりに呟く。
「…私をウォーカーさんに近づけないつもりですか、さん…」
「うん」
「ズルイですっ」
怒ったように言いながら、蝋花の表情は明るかった。
もう一度わたし達はきつく抱き合って、彼女はわたしの背中をぽんっと少し力を込めて叩く。
…一応ライバルのはずなんだけど、なんだろう。
リナリーとはまた違う、何か、こう…友情?を感じてしまう。
ああ、なんか良いなぁ…こういうの。
そう思って笑っていると、後ろからクロス元帥が方舟を通って前に進み出た。
「失礼」
「いっ?!」
「!!?」
わざわざアレンを押し退けて方舟から出たクロス元帥は、蝋花の姿を見つけて彼女に視線を向ける。
そして、とんでもない爆弾を投下した。
「ほぉ。お前の女か、アレン」
「は!? 何言っ…、って。あっ、どこ行くんですか師匠!」
なんでそうなるんですか、とわたしが抗議するより先に、
アレンを横に退かして、元帥はさっさとどこかへ行こうとしていた。
……このひと、また逃げる気だ。
「さては逃げる気…」
「ダメです、元帥」
「!」
スッと背後から伸ばされた腕が、クロス元帥の腰に回された。
抱きついていたのはリナリーで、彼女は困ったように顔をしかめながらクロス元帥を見上げている。
「どこにも行かないでください」
一瞬、場の空気が止まった。
……リナリー。なんて可愛いんだこの子は。
「…あー…なるほど…」
「リナリーがクロス部隊になったのはこのためだったのか…捨て身だな、コムイさん」
硬直しているクロス元帥と、彼にしがみつくリナリーを眺めながら、わたしとアレンはそんなことを呟く。
いくらクロス元帥とは言え、リナリーにああ言われたら断れないだろう。
今、確実に背後に花が飛んでいたもの。間違いない。
「蝋花? 李佳?」
「私がウォーカーさんの『女』…!」
「ス…ストライク!!」
…あー。なんか余計な混乱第二次被害だ出てるなぁ。
でも一番大変なのは、向こうで「ムンクの叫び」状態になってるバクさんかもしれない。
「リナリーさんの髪と純潔がぁぁぁっっ!!」
「バクさましっかりーーーっ」
一瞬のうちに、場の混乱は感染した。
中でも一番騒いでいるのはバクさんで、元凶であるクロス元帥は素知らぬ顔だ。
……ああ、うん。やっぱ大物だよね、この人。
「…なんか、さぁ」
「うん…」
緊張感の消え失せた光景を眺めながら、わたしは呟く。
その言葉を拾い上げたアレンは、同じように平和な光景を眺めながら頷いた。
「帰って来た、ね」
「うん」
騒がしい光景から視線を互いに向けて、わたし達は微笑う。
「とりあえずは、お疲れさまでした」
「はい。も、お疲れさま」
お互いにぺこりと頭を下げ合って、目が合った瞬間同時に吹き出す。
笑いが止まらなかった。なんだか涙まで出てくる。
滲んだ涙を拭っていると、軽い足音が耳に届く。
反射的に振り返ったわたしは、懐かしさすら感じてしまうその姿に、軽く目を瞠った。
「ウォーカー! !!」
「フォー!」
駆け寄ってきた小柄な体を、わたしは両腕で抱き留める。
若干、普段より軽くて色素の薄い体。
先日のAKUMAとの戦闘で負ったダメージは、まだ抜けきっていないようだ。
「フォー、大丈夫なの?」
「実体化するだけならな。
まだ長い時間は無理だけど、折角お前らが戻ってきたんだ。寝てられねぇだろ?」
そう言って微笑う表情は、幼い少女の外見であっても、永い時間を生きた年上の貫禄がある。
破天荒で理不尽にすら映る普段の彼女からは想像出来ないような、優しい微笑み。
「…約束、守ってくれたんだな。」
「うん…」
穏やかな声に頷くと、軽く頭を撫でられた。
その手は軽くて、だけどとても温かい。
「おかえり。頑張ったな」
「うんっ…うん、ただいま、フォー…ッ」
その言葉を合図に、わたしはフォーの小さな体を抱き締めた。
みっともないから泣きたくなくて、必死に嗚咽を堪える。
だけどダメだ。涙で視界がにじんできた。
「良かったなぁ、ウォーカー。に愛想尽かされなくて」
「う…」
にやにやと笑いながら言われて、アレンが言葉に詰まる。
…この反応を見る限り、アレン自身にも自覚はあるらしい。
うん、確かに殴られたお腹は痛かった。それ以上の怪我で忘れてたけど。
「…ところでマジでウォーカーを殴ったのか?
」
「うん、殴った」
「…お前って、体力無い割に勇ましいよな」
「……勇ましいって言うより、凶暴なんですよ……」
「アレンさん何か言いました?」
「何も言ってません」
即答で返ってきた応えとは裏腹に、アレンはすーっと視線をわたしから逸らす。
ごまかしたって、バッチリ聞こえてますよ。誰が凶暴だ失礼な!!
「とりあえず、お前らは医務室行けよ」
「え?」
ふと気付いたように言われて、わたし達はフォーの方を振り返った。
そんな反応に、彼女は呆れ返ったように目を眇める。
「ここだってそれなりの医療施設があんだろ。
テメェら全員、ご大層な怪我人だろうが。見てる方が痛ェんだよ!!」
フォーに力一杯怒鳴られて、わたし達は肩を竦めた。
だけど、でも…――
なんだか嬉しくなってしまって、わたし達は顔を見合わせて笑う。
怒られて嬉しいと思うようになるなんて、今まで思いもしなかった。
+++
「ウォーカー。本部との連絡がついたぞ」
「バクさん」
治療を受けていたわたし達は、慌てたように医務室に駆け込んできたバクさんの方に視線を向けた。
わたしはまだましな方で、他のみんなの怪我は思った以上に酷い。
脅威的な治癒力を持つ神田ですら、傷こそ塞がったものの、治癒の反動か体力はだいぶ低下している。
クロス元帥だって、《卵》の転送を阻止していた際の術の反動で怪我をしているくらいだし。
…今だから思うけど、本当…よく生き残れたよね、わたし達。
「しかし…予想はしていたが、全員酷い怪我だな…。
いや、全員生還出来ただけでも良しとするべきなのだろうが…」
苦い表情で呟きながらわたし達を見回し、バクさんは小さく息を吐いた。
そこでふと、わたしの方を見る。
「が一番マシか?」
「マシて。バクさんってば相変わらずわたしの扱い酷くないですかー?」
「言い掛かりはやめたまえ」
そうかなぁ。言い掛かりじゃないと思うけど。
…今更だけど。どいつもこいつも、わたしの扱い酷いと思うんだよね。
掛け値無しにわたしの優しいのはリナリーだけかもしれない。
「ん? 、その右手はどうした?」
「えっ…」
不自然に布が巻き付けられたわたしの右手に、バクさんが視線を向けた。
咄嗟に腕を後ろに回して、右手を隠す。
…しまった、これじゃあ逆に怪しい。
「――おい。行くならさっさと本部へ行くぞ。
何人かイノセンスが破損しているだろ。怪我人も多いしな」
「え。…あ、…は、はい…」
「……そうだな」
何か言いかけてから言葉を飲み込み、バクさんは頷いた。
クロス元帥はそれきり、その件に関しては口を閉ざしてしまったし、バクさんもそれに触れない。
方舟の解析、及び今後の活動方針の為にも、バクさんも一緒に本部に来ると言う。
だけど、忙しそうに走り回るバクさんやウォンさんの姿も、わたしの意識の外だった。
「……」
無造作に巻かれた布の上から、わたしはぐっと自身の右手を握り締める。
コレは何だ。隠せと言われた、消えない傷痕。
この傷痕の意味は何だ? わたしは、いったいどうしたんだ…?
「」
「え?」
呼ばれて、慌てて振り返る。
穏やかに微笑んで手を差し出してくるアレンに、わたしはどうしてか、泣きたくなった。
「帰りましょう」
「…うん」
差し出された手に手を重ねて、わたしは頷く。
――既にわたしの知る《物語》ではなくなってしまった《世界》。
不安がないと言ったら、嘘になる。
今までわたしがこの世界で生き残れたのは、《知る者》としての心の余裕があったからだ。
それを失った今、わたしは自分の行動が最善かどうかなんて、もう見当だってつかない。
その上、単なる《傍観者》、ただのイレギュラーだと信じていたわたし自身の立場が、今、揺らぎつつある。
…だけど。
リナリーが居て、神田が居て、ラビが居て、みんなが居て…、
――アレンが居るから、きっと、わたしは大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせて、わたしは繋がったアレンの手を握り締めた。
――――――左手で。
荊の鎖が、この手を捕らえて離さない。
To be continued?
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