それは、言葉で説明するには難しい感覚だった。
ただ、崩れた《世界》が戻ってきた。それだけが、明確なこと。
「…元に、戻った…?」
「うん、多…分…」
答えた瞬間、ぐらりと視界が揺らいだ。
酷い痛みが右手にはしり、意識が遠のいていく。
「?」
崩れ落ちたわたしを、アレンが慌てて支えてくれた。
だけど、わたしはそれに対して何も応えることが出来ない。
「? ! どうしたんですか、!?」
辛うじて意識が残ってる。
だけど、必死にわたしを呼んでくれているアレンに、言葉を返す気力もない。
落ちて往く意識の中で、耳の奥に響くのは、わたしを呼ぶアレンの声。
そして、霞む視界の端に映ったのは――…
――血を流す、自分の右手の甲だった。
「『卵』が元に戻ってく…!」
ほとんど消えかけていた生成工場の核――卵が、徐々に元の形を取り戻しつつあった。
それがどうしてなのかは、私にはよくわからない。
だけど、転送が防がれた――つまり、方舟の崩壊が止まったということだけは、理解出来た。
「転送を止めたんで、消滅プログラムも解除されたか。ギリギリだったな」
元に戻った床の上に腰を下ろし、クロス元帥は心なしか安堵したように息を吐く。
「でも、ま…これで『生成工場』は転送不完全で伯爵の元に届かんだろう。
師弟の勝利だ、アレン。はっはっはっ!」
「「……」」
返ってきたのは、沈黙。
無線は繋がっているはずだった。
それに、アレンくんだけじゃなく、も何も言わないのが気に掛かる。
「…無視か」
「!? アレンくん?」
もしかして、何かあったのかもしれない。
ふたりとも酷い怪我をしていた。もし、そのせいで倒れていたりしたら…!
「アレンくん、大丈夫?
? 聞こえてる? アレンくんは…」
「……。アレン、お前らのいる『部屋』に行くから、こっちにドアを出せ」
必死に呼びかける私を手で制して、しばらく黙っていたクロス元帥が、静かな口調で告げる。
「お前が望めば開く」
その言葉に応えるように、一音だけ、ピアノの音が響く。
瞬間、目の前に現れたのは、簡素な扉だった。
「!!」
クロス元帥の言う通りに運ぶ物事に、私はただ、目を瞠る。
方舟のこと、よく知ってる…。
いったい、この人は――何を、どこまで知っているんだろう…?
+++
朧気な意識の中、扉の開閉音が耳に届いた。
足音はふたつ。リナリーと、クロス元帥だろうか…。
「リナリー」
わたしを抱えていたアレンが、僅かに動く気配がした。
右手の痛みはもう無いけれど、なんだか気怠くて目が開かない。
「良かった、無事で」
「…アレン…くん?」
意識だけが、辛うじて覚醒する。
駆け寄ってきた気配は、多分リナリーだ。
「崩壊が止まったの。ピアノの音がね、聴こえてきて…アレンくんが弾いたの…?」
「うん……」
覇気のないアレンの声。わたしの肩を抱く腕に、僅かに力が籠もるのを感じた。
その瞬間、リナリーが息を飲む。
「…え? !? どうしたの、!!」
「貸せ」
そんな言葉と共に、わたしの体はアレンの腕から持ち上げられた。
目を開けなきゃ、と思うのに、どうにも気怠くて目を開けることが面倒くさい。
「…おい、起きろ。」
「ぅん…」
ペチペチ、と頬を軽く叩かれ、わたしはようやく重い瞼を持ち上げた。
瞬間、目の前にあったのは端正なクロス元帥の顔。
………ああ、この人って、年齢不詳だけどやっぱいい男だなぁ……。
「…クロス、元帥…?」
「ちっ…嫌な予感ってのは当たるもんだな…」
わたしの右手を見ながら、クロス元帥はそんなことを舌打ちと共に呟いた。
手早く右手に何か布を巻きながら、わたしにだけ聴こえるくらいの声量で、告げた。
「…この右手の傷は消えない。決して人の目に触れさせるな」
「え…?」
「いいな。…アレン達にもだ。特に教団では隠し通せ」
「…あ、あの…」
何を言っているのか、わからない。
…わたしの右手は、いったいどうなったんだろう。
クロス元帥の手を借りながら、わたしはゆっくりと身を起こす。
痛みはない。ただ、気怠さが残っているだけ。
ぶんっ、と頭を軽く振ってみると、ようやく感覚が戻ってきた。
そして、視線を巡らせて、わたしは思わず目を瞠る。
睨み付けるように強い視線を、アレンがクロス元帥に向けていたからだ。
「――お前が何を言いたいのか分かってる。コワイ顔すんなよ」
「どうして…っ」
ただ静かに佇むクロス元帥の声音は、どこまでも淡々としていた。
対するアレンは、きつく元帥を見据えながら、ギリッ…と唇を噛む。
そう言えば…アレンは、あの楽譜の文字を見て驚いていた。
記号か何かにしか見えない、文字。
いったいあれは、どこの国の文字なんだろう。
だけど、アレンのあの動揺から推測すると――、
…どこかの言語だとは、思えない。きっと、もっとずっと、特別な何か。
「あの、楽譜は…」
アレンが搾り出すように口を開いた、瞬間だった。
『ごはんですよーーーーッッ!!!』
なんとも気の抜けた大声が、部屋中に響き渡る。
不可抗力だろう、アレンはその場にすっ転び、クロス元帥ですらつんのめった。
「なんだっ??」
「……」
体勢を整えるクロス元帥の表情はなんとも苦く、アレンは座り込んだままきょろきょろと辺りを見回す。
わたしとリナリーもまた、突然の声に驚き、周囲を見回した。
『ラ、ラビさん。そんな犬じゃねーんスから…』
『イーからみてろよチャオジー。飢えたアレンなら百パースッ飛んでくっから。
ごはんだぞーーーーーーーーーーーー!!』
再び聞こえた、大音量の声。
わたし達は、思わず顔を見合わせた。
「! この声…!?」
「ラビとチャオジー…!?」
そうだ。間違うわけがない。
ついでに、こんな緊張感のないことをやってのけるのは、はっきり言ってラビしかいない。
「方舟のどっかからの音声だな。うるせ」
『ステーキ、パスタ、みたらし団子~~~ッッ』
「方舟のどっかって? え?」
目を白黒させるアレンに応えるように、何かのスイッチが入るような音が微かに聞こえた。
瞬間、パッと大きな画面が目の前に現れる。…え、なにこれ。
『ごはんだぞアレン!!! ごぉーはぁーんんんんーーーッッ!!!!』
『…エクソシストって…』
「「「!!!」」」
「あ。映像出た」
大きな画面に映った映像に、わたし達は大きく目を瞠った。
口元に両手を沿えて叫ぶラビと、それを呆れたように見るチャオジー。
元気なふたりの姿が、スクリーンに映し出されていた。
「!!」
「ラビ…ッ、チャオジー!」
「生きてる…っ」
――予想は、出来ていた。だけど確信があったわけじゃない。
本当に、再生(リセット)されたんだ。
戻って…来たんだ。ふたりとも…!
『カルビ肉ーーー!!』
…感動のシーンのはずなのに、なんでよりによって呼びかける言葉が食べ物の羅列なのか。
いくら食への執念が強いアレンだって言っても、これには引っかからないだろうに…。
「ほぉ、街ごと戻ってきたか。
まぁ別に次元の狭間に吸収されただけで、死んでたわけじゃねェしな」
そんなことを言いながら、クロス元帥は手近な椅子にドカッと座る。
その言葉に、ぎぎぎ…と効果音が聞こえそうな緩慢な動きで、アレンがクロス元帥を振り返った。
「…師匠。『死んだ』って言ってませんでした?」
「あ? たいして違わんだろ。戻ってこれなかったら」
「ワザとだっ! 絶対ワザと言ったでしょッ」
アレンがクロス元帥に食ってかかると、ひとり呆然とスクリーンを見ていたリナリーが、ぺたりとその場に座り込んだ。
ティムキャンピーが驚いたようにのけぞり、狼狽えたように彼女の周囲を旋回する。
『みたらしみたらしみたらしッ』
『オレなんかはずかしいっス!!』
「ラビ! ここ! 僕らここ! ラビってば聞こえませんか!?」
スクリーンに向かって怒鳴るアレンだけど、ラビ達には聞こえていないらしい。
返ってきた返事は、相変わらず食べ物の名前の羅列だ。
『ハンバーグマーボーパスタチキン…』
「あれっ…師匠、こっちの声はあっちにいかないんですか?
くつろいでないで教えてくださいよ!!」
「あ~~~~ん?」
椅子にもたれ掛かってくつろぎモードの入ったクロス元帥が、面倒臭そうに視線を上げた。
わたしはそんな師弟の様子に苦笑しつつ、狼狽えて旋回しているティムキャンピーに手を伸ばす。
ティムキャンピーはすぐにわたしの方へ向かってきて、差し出した手の中に収まった。
わたしはそのまま、座り込むリナリーの肩に空いた手を置く。
顔を上げたリナリーに小さく頷いて見せると、彼女の瞳に涙が浮かんできていた。
『ハッ』
『なんスか?』
『まてよ、オレらが助かってんなら、もしかしてユウとクロちゃんも…!』
スクリーンの向こうでは、叫び飽きたのかラビは小さく手を打って、そんなことを言っていた。
そうだ、神田とクロウリー…!
最下層まで落ちたラビとチャオジーとは、別の場所に居るはずだ。どうにかして合流しなければ。
『ユウのパッツ…』
『上等じゃねェか馬鹿ウサギ』
――その声を聞いたのが、酷く昔のことのような、錯覚を覚えた。
「!!」
わたしは、目を瞠ってスクリーンを凝視する。
酷い怪我を負っていた神田。わたしの治癒能力が追いつかず、崩れていく《世界》に置き去りにしてきてしまった。
「神、田…」
スクリーンの向こう側に、変わらない姿の神田が居た。
肩にクロウリーを担ぎ、無理に扉を押し開けた体勢で、普段通りの仏頂面の――、
『おおっ! ユウッ!!』
『チッ』
『…に、担いでんのはクロちゃんか!? クロちゃーん!』
『落ちてた。それよりこれはどーなってる』
『オレにもサッパリさ~。コラーーーッ! 出てこいっつのモヤシーーーーー!!』
「誰がモヤシかバカラビーーーーーーーーッッ」
…やっぱり、禁句なのか。『モヤシ』って。
アレンが大声で怒鳴った瞬間、スクリーンの向こうの3人が弾かれたように顔を上げた。
『!?』
『うおっ、アレン!? どこっ?』
『チッ。モヤシの声が空から…』
「アレンですっ、バ神田!!」
…なんか、テレビ電話みたい。
画面を前に怒鳴るアレンと、空を見上げながら喋る神田達。
なんだか、酷く平和な光景がそこにあった。
『エリ…ア…デ』
『あっ、クロちゃんしゃべった!!』
クロウリーも、意識ははっきりしないようだけど無事らしい。
わたしは肩に入っていた力を抜いて、その場にへたり込んだ。
そして、泣き出すリナリーの肩を抱き締める。
「よかった…」
「…うん…うん…ッ」
つられるようにしながら、わたしもリナリーと一緒に泣いた。
だって、みんなが生きてる。怪我は酷いけれど、誰一人欠けることなく、ここにいる――!
「アレン!」
「え? なんですか?!」
涙を拭って、わたしは顔を上げた。
呼び声に呼応して、アレンがわたしの方を振り返る。
「行こう。みんなを迎えに!」
「――はい!」
一瞬言葉を失って、だけどすぐに、アレンは泣きそうな笑顔で頷いてくれた。
止まらない涙を拭うことを諦め、代わりにわたしは、精一杯の笑顔を浮かべる。
アレンの意志ひとつで繋がる扉が、神田達の集まるエリアに具現する。
わたし達は互いに頷き合って、そのドアノブに手を伸ばした。
叶えたい願いがあった。
それはただ、みんなと一緒に教団(ホーム)に帰ること。
ただそれだけの、とても簡単で何よりも難しく、得難い幸福な《未来》。
だけど今、それが現実になろうとしている。
――――――――この、扉の向こうで。
叶った願い。それは、渇望して止まなかった《未来》のカタチ。
To be continued?
気に入っていただけたら、ぽちっと押してあげてください。コメントは入れなくてもOKです。