――世界なんて要らないと思った。
みんなに優しくない世界なんて要らない。
神様なんてどこにもいない。
だって、この世界を神様が愛しているなら、どうしてこの世界はこんなにも哀しい?
――わたしは知っている。
この《世界》に、神様なんていない。
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この《世界》は、紙の上に造られた疑似現実。
でも、だからってこんな《物語》は望んでいなかった。
わたしは望んでいなかった。
こんな《物語》なら要らなかった。
息つく暇もなく、ひとり、またひとりと消えていく仲間達。
その背を見送ることしか出来ないわたし。
護る力も戦う力もないなら、わたしなんて必要ない。
逃げたい。逃げられない。逃げたい。逃げちゃダメ。
何も出来ないのにどうして…
――――――どうして《世界》は、わたしを戦場へ駆り立てるのだろう。
――今のこの気持ちを、的確な言葉で言い表すとしたら、なんだろう。
後悔。自責。恐怖。…憎悪。
それらはすべて、酷く醜いマイナスの感情。
胸の奥を冷やすその気配を飲み下すように、わたしは自分の手を握り締めた。
――目の前に在るその存在は、すべての《根元》。
わたしの中の『何か』が、その存在に反応してざわめく。
それはイノセンスなのか、それとも別の『何か』なのか。
よくわからない。
だけどただ、その存在を目の前にして、奇妙な感覚を味わっているのは確かだ。
『こんばんワ』
完全に意識のないティキを抱え上げ、そう言って首を傾げた伯爵。
その手に握られるのは、アレンのものと対になるかのような色調の、大剣。
「――よぉ。相変わらずパンパンだな、このデブ」
銃口を伯爵に向けたまま、目を眇めてクロス元帥は口角を持ち上げ嗤った。
――わたしは、動けなかった。
周囲の床が崩れ落ち、アレンとリナリーの姿が視界から消える。
それでもわたしは、動けなかった。
心臓を直に掴まれたような、衝撃。
耳の奥に響く鼓動。
独りでに震える自身の右手を、きつく左手で握り締める。
根元的な何か。
本能的な何か。
それらが告げる。何かを告げている。
このざわめきは――何だ。
『会うのは何年ぶりでしょうかネェ』
「さぁな。デブと会った日なんていちいち日記に記してない」
『マ その言い方は~~~、我が輩とよく会ってるように聞こえますネェ
隠れんぼ~のクロスちゃぁ~ン』
わざと挑発するかのように、伯爵が告げる言葉。
その内容はまともに頭に入ってこない。
ただ、響きが。その音が。その《声》が、わたしの中の何かを刺激する。
『そこの「ご婦人」の小賢しい能力は、我が輩達の目から貴方を消してしまいますからネェ。
借金取りからも、そうやって逃げているんでしょウ?』
「はっはっは」
その瞬間、伯爵の足場が砕け散った。
クロス元帥の、《断罪者(ジャッジメント)》。
強過ぎるほどに強いイノセンスの《声》に、わたしの右手の震えが止まった。
「貴様のトロいしゃべりに付き合う気分じゃない。冷やかしなら出ていけ」
冷ややかなクロス元帥の言葉に、伯爵は軽やかに別の瓦礫の上に着地しながら、嗤う。
『「でていけ」? これはこれは! ここは我が輩の船ですガ』
「捨てたんだろ」
銃口を向けたままに言い放たれた言葉に、わたしは目を瞠った。
…やっぱり、クロス元帥は何かを知っている。
この《方舟》に関する、重要な何かを。
「この方舟は、江戸から飛び立つ翼を奪われたアヒル舟」
ピクリと、伯爵が反応を返した。
それに気付いているのか、クロス元帥は淡々とした口調で続ける。
「『14番目』…ノアを裏切った男の呪いがかかった日からな…」
『――やはり…貴方でしたカ』
――ぞわりと、総毛立った。
殺気にも似たそれが、明確に伯爵から発せられた。
再び震えだした右手に、わたしは咄嗟に爪を立てる。
鈍い痛みに顔をしかめた瞬間には、右手の震えは止まっていた。
…いったい、どうしたというのか。こんな時に。…しっかり、しなければ…。
『あの男、「14番目」に資格を与えられた《奏者》ハ』
――『14番目』…《奏者》…方舟を操る資格を持つ存在。
その『裏切りのノア』から、《奏者》の資格を譲られた人間。
それがクロス元帥ではないか――というのは、《物語》を知るわたしも予想していたことだった。
「奏者…?」
「伯爵…っ」
リナリーとアレンの声に、はっとわたしは我に返る。
ゆっくりと視線を上げた瞬間、息を呑んだ。
『何をしに来たのです? この舟を奪いに来たのなら遅すぎましたネェ
すでにこの舟の「心臓」は新しい方舟に渡りました』
――アレンの目に宿る、強い憎悪の色。
『「心臓」がなくては舟は操れない。《奏者》であっても何も出来まセン
愚かですねェクロス 二度と出られないとも知らずニ…フフ』
肌を刺すような殺気が、空気を伝ってわたしにまで届く。
わたしは、無意識に、ゆっくりと頭を振った。
『この方舟は最後にエクソシストの血を吸う柩となるのですヨ ホッホッホッホッ』
伯爵のその言葉が、最後の一線だった。
ピシリ、と。
亀裂のは入るような音が、響いた。
アレンの隣にいたリナリーが、はっと目を瞠る。
わたしはその光景を前に、声にならない声を、上げた。
「…く…そっ」
遠目からでも、わかる。
アレンの傷口から滴る、赤い色。生命の雫。
限界を超えて発動しようとする彼のイノセンスに、わたしのそれも共鳴し始める。
肌を刺すような殺気。頭の奥に響くのは、鈍い痛み。
「…ッ」
わたしは、瓦礫を蹴った。
震える体を叱咤して、ふたりの立つ瓦礫へと飛び移る。
「くそ…っ」
「だっ、だめ! これ以上は…体の傷が…アレンくん!!」
遅かった。
リナリーの制止の声を聞かずに、アレンは伯爵に向かって飛び出していく。
響く頭痛に耐えながら、わたしは苦い思いで小さく舌打ちする。
「! 、お願い! アレンくんを止めて!!」
「…わかってる、リナリー」
今にも泣き出しそうな彼女の頭を軽く撫でてやってから、わたしは指先に意識を集中させた。
――発動。《天蓋黒盾》。
「あ…」
「リナリーはここに居て。盾が護ってくれる」
「…」
一瞬だけ不安そうに揺れた瞳は、すぐに強い力を取り戻した。
しっかりと頷くリナリーに頷き返して、わたしは再度、瓦礫の床を蹴って飛び出した。
「ラビ…! チャオジ…クロウリー…、神田…っ!」
アレンの速度は速い。
いったい、どこにこんな力が残っていたんだ。
左腕を大剣に変え、アレンはただ、真っ直ぐに伯爵へと斬りかかった。
この距離では、初太刀には追いつかない。アレン…ッ
「伯爵ぅぅぅ!!!」
『!』
今までアレンには見向きもしなかった伯爵が、弾かれたように振り返った。
「!」
伯爵と対峙していたクロス元帥も、目を瞠ってその光景を見る。
「アレンくん…っ、やめて…っ」
リナリーの悲痛な叫び声が、壊れていく《世界》の中に、響いた。
「アレンーーーーーーーーーッ!!」
――わたしの声は、届いただろうか。
いつだって、思う。
一番大事なところで、わたしの声はアレンに届かない。
頭痛が酷くなる。
痛い。痛い。これは何。
『我が輩の剣…!?』
追いつけない間に、アレンと伯爵の剣がぶつかり合った。
その瞬間、更に悪化した頭痛に視界が歪む。
『〝憎悪〟…ッ! イイ瞳だ、アレン=ウォーカァ~~~』
満足そうに呟くと、伯爵は大きく腕を振った。
反動で弾き飛ばされたアレンと、伯爵の距離が空く。
気力を振り絞って、わたしは声を張り上げた。
「アレン、退きなさい! こんな足場の悪い場所で闘っちゃダメだ!!」
『!』
だけど。
わたしの声に反応したのは、アレンじゃなかった。
大きく目を瞠り、わたしを見つめる伯爵の目。
ぞっと、背筋に寒気がはしった。
『…これはこれは!
お久しぶりですネ、《姫君》! もっとも、アナタは覚えていないでしょうガ』
「!?」
久しぶり…? どういうこと。
あの時…アレンが教団に来る前のことを言ってるのか。
いや…違う。そんな雰囲気じゃない…。
『――なんと美しい翼でしょうカ
やや誤算はあったようデスガ、完全なる《覚醒》まであと一歩ですネェ』
わたしの姿を満足そうに見やり、伯爵はしきりに頷いていた。
乱れる呼吸を整え、わたしは無理矢理平静を装い、口を開く。
「…どういうこと。伯爵」
『知りたいですカ? では、我が輩と共に来ることデス』
その一言に、胸の奥で何かがざわめき、音を立てた。
奇妙な感覚に抗うように、わたしは必死に頭を振って、キッと伯爵を見据える。
「…わたしは、エクソシスト。この身はアレン達と共ある――それが答えよ」
『そうですカ…良いでしょウ。来るべきその瞬間まで、エクソシストとして生きナサイ』
案外、あっさりと伯爵は引き下がった。
驚愕に目を瞠るわたしに、伯爵はどこか、喜ばしい何かを祝うような口調で、告げる。
『――どう足掻こうと、アナタは《運命の輪》から逃れることは出来ないのですカラ』
どういう意味だ。
それを訊ねる前に、わたしの横を過ぎ去った衝撃波が、伯爵に襲いかかった。
振り返ると、大剣を振った体勢のまま、アレンが物凄いスピードで突っ込んでくる。
『ホッホッホッ』
ひとり、伯爵だけは余裕だった。
衝撃波を大剣で防ぎ切り、そのまま嗤いながら暗闇の中へと落ちていく。
「あぁあぁあああああっ!!」
咆吼にも近い声を上げながら、《神ノ道化(クラウン・クラウン)》を握ったアレンは急降下する。
いけない。このままでは、ラビ達と同じように、アレンも――!!
「落ちる…っ…アレンくんっ!!」
リナリーの涙混じりの悲鳴が、耳を突く。
わたしは大きく背の羽根を羽ばたかせた。
「チッ…! お前は退がれ!!」
耳に届いたクロス元帥の言葉に、思わず目を瞠る。
退がれ? そんな、だってこのままじゃアレンが…!
「なッ…聞けません! アレンが…ッ」
「退がれ。――元帥の命令だ、『エクソシスト』!」
「…ッ」
ぐっ、とわたしは言葉を飲み込んだ。
元帥は、エクソシストの頂点たる存在。
クロス元帥の強い言葉は、わたしを制するには充分過ぎた。
戻れ、と短く告げられて、わたしはリナリーのもとへ引き返した。
――瞬間、響いたのは賛美歌。《聖母ノ柩(グレイヴ・オブ・マリア)》の、声。
「《脳傀儡(カルテ・ガルテ)》!!!」
その《音》が響いた瞬間、落下していたアレンに変化が現れた。
「!!?」
振り上げた《神ノ道化(クラウン・クラウン)》が、瓦礫の壁に突き刺さる。
それはアレンの手によって成された行為のように見えたけれど、彼の反応からして違うようだった。
「体が勝手に動く…!? マリアの能力か…!」
落下が、止まった。
安堵の息を漏らし、わたしはリナリーの横にへたり込んだ。
アレンまで落ちてしまったら、どうしたらいいかわからなくなるところだった…。
「――やめろ。仲間に死なれて頭に血がのぼったか、馬鹿弟子」
淡々と告げたクロス元帥の言葉に、わたし達は息を呑む。
突きつけられた現実に、じくじくと胸の奥が痛んだ。
「マリアの術を解いてください師匠!
伯爵を!!」
「嫌でも這い上がってこい」
怒鳴るアレンに対して、応えたクロス元帥の声は、どこまでも淡々としていた。
「――憎しみで伯爵と戦うな」
「!!」
その言葉に、アレンがどんな表情を浮かべたのか、わたしの位置からは見えない。
ただ俯くことしか出来ないわたしを、リナリーが傷だらけの手で抱き締めてくれた。
「…リナリー…」
「………ッ」
「……ごめんね、何も…出来なかった……」
わたしにしがみついてすすり泣くリナリーの髪を、撫でるわたしの手が震える。
クロス元帥に引き上げられたアレンが、視界の端に映る。
よくあんな怪我で動き回れたものだと、思うほどに傷付いた体。
本来なら、立っているのも辛いはずの。
その姿を見ながら、わたしは自分の頬を伝う涙に気付く。
無意識に零れたそれは、どんな意味があったのか。
哀しいのか。
悔しいのか。
辛いのか…。
「……」
自分の手を、見下ろした。
傷を癒す力。誰かを護るための力。なのにどうして、わたしはまた間に合わなかったのか。
伯爵は消えた。
彼は正真正銘の《奏者》だ。新しい方舟に移ったのだろう。
残されたのは崩壊寸前の方舟と、ここから出ることの叶わないわたし達。
せめて、と思った。
せめてみんなが一緒に居れば、まだ、この心はこんなにも重くならずに済んだのに。
「…」
ラビとチャオジーが、闇に消えた瞬間を思い出す。
…護れなかった。神田の時と同じだ、何も変わらない。
目の前に居たのに。
手を伸ばせばきっと、届いたはずだったのに。
「……ッ」
もう、イノセンスを発動する体力も残っていない。
アレンの怪我すら、治してあげられない。
役に、立たない…わたしはいったい、何の為に――ここに居る?
「……」
方舟の崩壊は、もう止まらない。
残ったのはわたしと、アレンとリナリー。そしてクロス元帥。
みんなが…命を、賭けて…なのに結果が、これか。
ぎゅっと、わたしはリナリーを抱き締めた。
今の私に、アレンに掛ける言葉なんて何も…浮かばない。
「――立て」
沈黙と崩壊の音だけが支配する中で、そう低く呟いたのはクロス元帥だった。
顔を上げると、クロス元帥はじっとアレンを見下ろしている。
「お前に手伝わせる為にノアから助けてやったんだ」
「……てつだう……?」
「…何をするんですか…?」
俯いたまま言葉を発したアレンと、のろのろと顔を上げたリナリー。
ふたりに応えたクロス元帥の言葉は、ただ、一言。
その言葉に、崩壊の音が重なる。
「――任務だ」
――崩壊の刻限が、すぐ近くに迫っていた。
届かない声が、壊れゆく《世界》に虚しく響き渡る。
To be continued?
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