――扉をくぐった先にあったのは、不思議な景色だった。
昼も夜もない、時間の感覚を失わせる空間。
ただわかるのは――ここがまだ、方舟の中だということだけだ。
「何だここ…?」
「外じゃねェな…」
現実離れしたその光景を前に、アレン達は訝しげに周囲を見回す。
『方舟』というものが何なのか、それが何の為にあるのか。
見当もつかないが、ここに閉じ込められたという事実は消えない。
出口はひとつ。そして時間制限付きだ。
癪ではあるが、ここはノアの思惑に乗るしかなかった。
「!」
不意に、周囲を見回していた神田が、腰に佩いた六幻に手を掛けた。
はしる緊張感に、傍に居たアレンが表情を引き締める。
「!? 神田?」
「シッ。黙れ。――いるぞ」
短く神田が告げ、促した視線の先。
そこには大柄な男がひとり、佇んでいた。
額には聖痕。
――ノアの、ひとり。
名前は知らないが、その男に見覚えはあった。
特に、ティエドール元帥の護衛部隊であった神田にとっては。
「お前ら先行ってろ」
緊張のはしる中、一歩前に出た神田が、常と変わらぬ口調で告げた。
予想外の一言に、アレン達は思わず声を揃えて訊き返す。
「「「えっ!?」」」
「ユウ?」
困惑する面々を気にする風もなく、神田は六幻を鞘から抜いた。
その鋭利な視線を、ノアに向けたままで。
「アレはうちの元帥を狙ってて、何度か会ってる」
「カ、神田一人置いてなんて行けないよ」
「勘違いするな」
突き放すような一言に、思わずリナリーは口を噤んだ。
…それなりに長い付き合いだ。
この状況下において、神田が他人の言に耳を貸さないことくらいは、理解していた。
「別に、お前らの為じゃない。うちの元帥を狙ってる奴だと言っただろ」
本音はどうあれ、その『理由』を曲げる気はないらしい。
ノアに視線を向けたまま、神田は六幻の刀身を指でなぞる。
抜き身の刃が、イノセンス発動に光を灯した。
「――任務で斬るだけだ」
――パワー、馬力は相手が上。
しかしスピードに関しては、圧倒的にこちらに分があった。
いや、敢えて言うなら――遅い。
常人よりは速いだろうが、俺には止まって見える程度だ。
「――こっちだ」
大仰な攻撃をかわし、背後に回り込む。
一瞬もやらない。最小限の動きで、六幻を振るった。
「《八花螳螂》!!!」
剣閃に触れ、巨漢が吹っ飛んだ。
だが、浅かったか。無様に倒れ伏すことはなく、踏み止まった。
「!」
瞬間、微かな痛みが手にはしる。
――なんだ?
『ふい~~~…イテテ…。速いな。己より速い…』
「!」
――全然立てるか…直撃だったんだがな。
効いてないワケじゃないようだが、二幻の破壊力では奴は倒れない。
アクマより頑丈ってどんな生き物だ。
…ま、どうでもいいけど。
一撃で倒せる相手だとは、端から思っていない。
一撃で駄目なら、繰り返すだけだ。
「!」
激しい振動に、ハッと顔を上げる。
また地震…ここもそう長くはもたないな。
「《二幻》――昇華!」
――出来れば使いたくはなかったが、そうも言っていられないだろう。
今は一秒でも時間が惜しい。
「俺の命を吸い高まれ――禁忌《三幻式》!!」
『!!』
確かな力の波動が、内側から吹き上がる。
本来なら、装備型の適合者では引き出せないはずの――イノセンスの《力》。
『おいおい早いぞ! もう決めに掛かる気か』
「はっ…もともとお前と勝負を楽しむ気なんざねェよ。やりてェならあの世でゆっくりやってこい」
『あの世か…己が逝く時は多分、おまえも一緒だぞ』
そう言って、スキン=ボリックと名乗ったノアが、嗤った。
『気付いてるだろ、エクソシスト。
お前の手…まだ軽い火傷で済んでるだろうがな』
「!」
『己は「怒り」を司るノア! スキン=ボリック!!
この体躯には何百万ボルトもの高エネルギーが満ちている。
わかるか? その刀で己を斬り裂く瞬間、お前の身体に己の全てが流れ込むんだっ、わかるか!!』
喜悦を孕む声で語り、嗤う。
耳障りなそれに、思わず顔をしかめた。
『神の怒りに触れた人間の末路は、黒炭だ!!』
「言ってろよ」
…くだらない。
こいつらノアも、そして俺達エクソシストも、所詮は人間。
どちらが本当の『神の使徒』か、などということはどうでもいい。
神など信じない。信じられるのは目の前にある現実だけだ。
――自分自身の、心だけだ。
「――俺は生きる」
やらなければいけないことが、まだ山のようにある。
目的はまだ、ひとつも達成していない。
それに――死ねない理由が、もうひとつある。
俺は生き残り、あいつらと共に戻らなければいけない。
――たったひとりで待っている、の元へ。
+++
「………」
陣をくぐった先。
目を開ければ、そこに広がる光景は酷く現実離れしていた。
昼とも夜ともつかない、景色。
ロードの『能力』をなぞったわたしは、どうやらアレン達とは違う場所に辿り着いたらしい。
もっとも、同じ方舟であることは変わらないので、探せば見つかるだろうけれど。
「…アレン達が通った最初の空間じゃないな…」
南国のような、白いレンガの家はどこにもない。
だけどわたしは、この景色を知っていた。
「…スキン=ボリック…」
…間違うはずが、ない。
わたしが知る《物語》の最後。
――最悪の結末を持つ、それを。
間に合うだろうか。
わたしが間に合えば、きっと《物語》は変わる。
微々たる変化であっても、少なくとも、最悪の結末だけは回避出来るはずだ。
そう決意して足を踏み出した、その瞬間だった。
「…ッ!?」
激しい振動に、わたしは思わず目を瞠る。
視界の端に映るのは、崩れていく景色。
――部屋の崩壊が、始まった。
「…そん、な」
この部屋の崩壊の開始は、神田がアレン達と離れたことを意味する。
そして――スキン=ボリックとの、闘いが始まっていることも。
このままでは、間に合わない…!
「神田…ッ」
羽根を広げて、わたしは地を蹴った。
間に合え。間に合って。…お願い。
だって、ここでは――誰を失っても、おかしくないのだから…!
+++
「……ッ!!」
その凄惨な光景に、わたしは自分が『遅過ぎた』ことを、悟った。
砕けた六幻を手に、力無く頭を垂れる神田の姿が、視界に映る。
「…神、田」
死んでは、いないはずだ。
だけど、だけど、この光景は――、
「――ッ」
一瞬、気が遠くなりかけた。
だけどなんとか、踏み止まる。
まだだ。
まだ、終わっていない。
部屋は崩壊していない。
まだ間に合う。
すぐに傷を治して、あの扉をくぐれば。
『やった…壊した…奴を…』
耳に届いたスキン=ボリックの言葉は、まるで無意識に紡がれているかのようだった。
ここにきて初めて、わたしは考える。
ノアの一族って――いったい、何だ?
『クッ…ギャハハハハハハハ!!』
喜悦を含むその笑い声を聞きながら、わたしは震える身体を叱咤して、前に踏み出した。
羽根を広げ、足場の不安定なそこを飛ぶことで回避しながら。
『!? 今…足の下を何か…』
不意に。
視界の端に煌く光を、感じた。
聴こえる。
あれは、イノセンスの《声》。
《形》が砕かれても、六幻はまだ壊れていない。
「――吸え…ムゲ…ン」
微かな声が、静寂に響いた。
六幻の柄を握る神田の腕に、僅かに力がこもったのを、わたしは見る。
『!!?』
その光景を――なんと表現すれば、良いだろう。
まるでそれはイノセンスの意思であるかのように、砕かれた六幻は光を放ちながら繋がっていく。
「…ッ!」
鋭く響く《声》に、反射的に耳を塞ぐ。
この《声》は、多分、イノセンス――六幻の《声》だ。
正常な状態じゃない。だけど、暴走とも違う。
――警報が鳴り響くような、強い《声》。
イノセンスには触れていないのに、なんで、こんな。
「……」
わたしの、《ちから》が、『進化』している?
AKUMAのように。
――アレンの、左眼のように?
「…わたし、は」
――わたしは、いったい、『何』だ?
『なんだ…光が…砕けたイノセンスの刃を、繋げていく…っ』
わたしが動きを止めてしまった一瞬の間。
スキン=ボリックの足下を伝うように、欠片と化した六幻の刃が、光に繋げられて柄に戻っていく。
その《音》は、脈打つ鼓動の《音》。
「命を吸う、三幻式だ…」
絞り出すように呟かれた、言葉。
そして、私は悟る。――この光は、この《音》は…生命の灯火だ。
「俺の刀は、まだ、死んでねェぞ…ッ」
異音を立てながら、六幻の刃は柄に戻っていく。
刃の形を、成していく。
ぐっ…と、六幻を握る神田の腕に力がこもった。
本当に、一瞬のこと。
顔を上げた神田が、スキン=ボリックに向かって六幻を――振り下ろした。
「――これで、ホントに終わりだ…」
膝を着き、ボロボロの六幻を握り締めたまま、
神田はそれでも強い眼光でスキン=ボリックを見据えた。
『…わかってねェなぁ…』
一瞬の沈黙の後、スキン=ボリックは呟く。
――既に彼はヒトとしての姿を留めていない。
『言っただろ…ノアは不死…だ』
――ノアが、不死?
不死の存在などあり得ない。
だって、もう――ノアの一族の名を冠する彼は、死に体だ。
『まだ…終わってたまるかよぉ~』
それはイノセンスへの、憎しみと言う名の執念か。
崩れていく世界の中で、スキン=ボリックはなお、嗤った。
だけどそれも、ここで終わる。
その身体は、まるで砂のように崩れた――その存在の欠片すら、残さずに。
それを見届けて、神田は小さく息を吐いた。
「うる…せェよ。終わっとけ…」
吐き出す言葉にすら、普段の強さはない。
刃の形を辛うじて保っていた六幻が、耐え切れなくなったかのように崩れた。
「ち…コムイの奴に、頭…下げね…と、な…」
この状況下で、心配するのはそこなのか。
ああ、もう、なんて。
――なんて、どこまでも愚直な男だろう。こいつは。
「くそ…」
――崩れる。空間が、音を立てて崩れていく。
膝を着いたまま動かなくなった神田の方へ、わたしは駆け出した。
「…ッ…神田ッ!!」
叫ぶように名前を呼ぶと、弾かれたように神田は顔を上げる。
そして、信じられないものでも見るかのように、わたしを見た。
「!? ……? …おまえ、何で来た…?」
「そんな話は後にして! すぐに治すから…ッ」
怒鳴りつけて、わたしは両手に黒水晶の盾を具現化させる。
傷が多過ぎる。広範囲の治癒は経験がない…それでも、やるしか。
「――癒せ、《瞬癒結盾》!!」
《臨界者》となったわたしは、治癒の能力も格段に上がっている。
加えて今、わたしの体調は万全だ。治せない傷はない。
――ない、はずなのに。
「嘘、なんで!? 傷が塞がらない…!」
「…無駄だ…立て続けに、命を削った…、
今は傷の再生能力が、落ちている。…この傷は、おまえでも、治せねぇよ」
言われて、ハッと我に返った。
使用者の命を吸う三幻式。今の状態は、それでもイノセンスが神田の傷を治そうと作用している。
言うなれば、今は全身にイノセンスが作用し…同化している状態。
――わたしの治癒能力は、イノセンスには効かない。
「…ちょっと、そっちの治癒作用止めてよ」
「無茶言うな。自分で操作出来るような能力じゃねぇんだよ」
「無茶でもなんでも、やってよ!」
わたしは、護る為にここへ来たのよ。
なのに、何も出来ないなんて…わたしが、自分を許せない。
「もう、やだよ…何も出来ないのは、もう嫌だよ…!!」
「…」
「お願いだから、…せめて、わたしに出来ることを、させてよ…ッ」
せめて…せめてこの傷が癒えれば。
わたしの力じゃ、自力で立てない神田を抱えて飛ぶのは無理だ。だけど。
「…言ったろ。おまえは、自分でなんでも解決出来るほど、器用じゃねぇんだよ」
くしゃ、と。
神田の傷だらけの手が、わたしの髪を乱暴に撫でた。
「――。先に行け」
「え…?」
「この部屋の崩壊が加速してる。後ろの扉だ、行け」
神田が示した先には、崩れていく空間の中で、辛うじて形を保っている扉がある。
この先に、道が続いている。最上階――外への扉への、道が。
「…あいつが待ってる。行ってやれ」
「…神田を置いて、行けないよ…」
緩く、わたしは頭を振った。
アレン達のことは、もちろん心配だ。
だけど、でも――傷の治療すら出来ずに、神田を置き去りになんて、出来ない。
「…こんな、怪我してたら…死んじゃうよ…やだよ…!」
「」
怒ったように顔をしかめて、神田はいきなりわたしの胸倉を掴んだ。
え、なに、どういうこと。何この扱い。
抗議の声を上げようと開いた口は、そのまま塞がれる。
決して長い時間じゃなかった。
甘さの欠片もなく、ただそれは、咄嗟の行動だったのだろうと、一部だけ冷静な頭が分析する。
わたしは、大きく目を瞠った。
「…ッ、なっ」
「文句なら『後で』聞いてやる! 良いから行け!!!」
ドンッ、と。
神田の腕がわたしを突き飛ばし、わたしは不安定な地面を転がった。
慌てて跳ね起きた瞬間、わたしと神田を隔てるように、地面が割れる。
「――行け。おまえの羽根なら、足場が不安定でも移動に支障は無い」
「ッ神田!!」
それでも動けないわたしに、神田は強い視線を向けてくる。
鋭く、射抜くような視線。そこにある絶対の意思。
「――! おまえはエクソシストだろ!
ちゃんと前を見ろ!!」
「…ッ!」
「俺が惚れた女は、こんなとこでめそめそ泣いてるような奴じゃねぇ!
不器用で弱いくせに、必死になって走り回ってる馬鹿女だろ、おまえは!」
真っ直ぐな言葉が、心に突き刺さるような感覚が、した。
傷だらけの死に体で、それでもなお、わたしを叱咤する彼の真っ直ぐさが。
――どうしてこんなにも、哀しいのか。
「…俺を、失望させるな。」
真っ直ぐに見据えた視線。
揺らがない、凛とした黒い瞳。
これほどの強い思いを振り払うことなど、わたしには出来ない。
…狡い、と思った。
誇り高いその魂を汚すような真似が、わたしに出来るはずもないのだから。
「…ッ…死んだらぶっ飛ばすよ! ちゃんと追いかけてこないと許さないからね!!」
ようやく口に出来た言葉は、可愛げの欠片も無く。
もっと気の利いた台詞くらい言えないのかと、自分にがっかりした。
だけど、でも。
死なないで。生きて。
そんな言葉くらいしか、もう、願えるものはなく。
込み上げてくる涙を悟られまいと、わたしは神田に背を向け、羽根を広げた。
――やっぱり、ダメだ。『知っていた』のに。わかっていたのに。それなのに!
もう少し…あともう少し早く辿り着いていたら。
この結果は変わった? あんな怪我をさせずに済んだ?
どうしていつもこうなんだ。
『知っている』ことを生かせない。何も、何一つ、変える事が出来ない。
――もう、この先の未来をわたしは『知らない』。
どうしたら良いのかわからない。
《物語》の《運命律》がどこに働くかなんて、予想もつかない。
怖い。
ここから先はわたしの『知らない』、《世界》。
何が最善で、何が正しいのか、それすらもわからない――ッ!
「…はッ…あいつと同じこと、言いやがって…」
微笑う気配と、その言葉と。
こんなときになんでそんな、優しい声で言うのか、と。
溢れる涙が、拭う間もなく零れ落ちた。
――背後で、世界が崩れていく音がする。
目の前の景色も、徐々に壊れていく。
…わたしは信じてる。きっとすぐに再会出来るって。
だけど涙が止まらない。胸が痛い。呼吸が苦しい。
――折れそうな心が、悲鳴を上げ続けている。
だからわたしは、何度も、何度も心の中で呼び続ける。
ずっと先に居るはずの、アレンの、名前を。
それだけが、今のわたしの支えだった。
心の一柱を繋ぐ、たったひとつの存在だから。
必死に何か振り払うように、何度も何度も。
繰り返し、繰り返し、その名前を。
…ああ。
――今はただ、どうしようもなくアレンに会いたい。
崩れていく《世界》の中で、わたしの心は血を流す。
To be continued?
気に入っていただけたら、ぽちっと押してあげてください。コメントは入れなくてもOKです。