――いつも、直前までやらなくて後悔する。わたしの悪い癖だ。
助けられるはずだったのに。
助けたいと願ったのに。
どうして間に合わないの?
どうして、いつも――わたしは、逃げ道を探してしまうの?
我が身可愛さに、視線を逸らし続けた結果が、これ?
ああ、なんて滑稽な道化だろう!
自覚しなければ楽だった!
ここは《物語の世界》で、彼らは《登場人物》だと思い込めば楽だったのに!
だけど、だけど自覚してしまった。
《みんな》が、何に代えても護りたい大事な《仲間》で。
――《彼》が、誰よりも大切な《存在》だと。気づいてしまった。
《わたし》はもう、《傍観者》でも《観客》でも居られなくなる。
完全に、この《物語》に取り込まれてしまう。きっと、戻れなくなってしまう。
だけど、それがなんだ。
いったい何を恐れる必要がある。
そんなことよりも、《みんな》を、《彼》を護りたい。
もう、後悔なんてしたくない。
これ以上、傷つく姿なんて見たくない。
この《世界》は確かな《現実》だ。
空想でも妄想でもなく、《現存》する《世界》だ。
なら、わたしは…
家族と、友達と、二度と会えなくなったとしても――
――この《世界》で、生きたい。
「…スー…マン…?」
ドロドロと崩れていく、『スーマンだったモノ』を、呆然と見つめた。
鼻腔を衝く、鉄錆に似た臭い。
――死臭。
目の前のそれは、もう、『ヒト』でもなければ『生き物』でもない。
――ただの、『塊』だ。
「……」
ヒトの気配を感じて、ゆっくりと後ろを振り返る。
そこに立つのは、見知らぬ男。
だけど、僕には見覚えがあった。
現実のものではなく。
――スーマンの、記憶の中で。
「――ノ…ア」
無意識に呟いた自分の言葉に、感情がざわめく。
スーマンの出会ったノア。
――一瞬にして、3人のエクソシストを倒した、男だ。
「おいで、ティーズ」
「……!?」
彼が、どこか穏やかに何かを呼んだ。
それがなんなのかわからない。
ここには、僕とスーマンしかいないはずなのに。
そう思って、眉をひそめた瞬間に。
ズッ…と、何かが這い出てくる音が、した。
振り向くと、無機質な蝶が眼前に飛んでいる。
不自然な蝶だ。随分と大きいし、その羽根の模様はまるでトランプのようで。
――いったい…どこ、から?
首を傾げると、血溜りから、『それ』は無数に這い出てきた。
――つまり、スーマンの、なかから。
「スーマンの…体内から…っ…これは…っ!?」
「おいで」
一斉に飛び立ったそれは、僕を通り越して背後に居る男の下へ集まっていく。
酷く、異質な光景――無数の蝶は、彼の掌に吸い込まれていった。
「まぁまぁ、デカくなったかな」
満足そうに呟いた彼の手の平には、更に一回りは大きくなった蝶が居た。
――声がする。あの蝶には、声帯があるのか。どう考えても不自然な存在だった。
「バイバイ、スーマン」
酷薄な微笑と共に告げられた、言葉。
――聞き間違いでは、ない。
目の前が真っ赤に染まるような錯覚を、覚えた。
「お前…!? 何した…っ」
「……」
睨め上げると、男はきょとんと目を瞬かせた。
まるでようやく僕に気づいたと言わんばかりに、不思議そうに。
「はれ!? お前…っ、イカサマ少年A?」
「は? A?」
「ああ、そっか。こっちのオレじゃわかんないよな。
てかお前、もしかして『アレン=ウォーカー』だったりするの?」
まるでその口調は、古い知己に久々に会ったかのような気軽さで。
その表情は、普通の青年そのものの平和さで。
――ざわりと、感情が揺らいだ。
「…ッ」
バンッ…と、左手で殴りつける。
力の入らない手は、握ることすら出来なかった。
「ふざけるな」
ギリッ…と、唇を噛む。
目の前がチカチカして落ち着かない。
――ざわめくこの感情は、怒りだ。
「スーマンに何をした…っ!?
お前が殺したのか。…答えろ!!!」
「はは…」
一瞬驚いたような表情を見せて、彼は気の抜けた笑顔を見せた。
そして――吐かれた言葉は、その表情に似合わない、残酷な一言。
「そりゃ、敵なんだし。殺すでしょ?」
まるでそれは、当たり前のことを子供に言い聞かせるような、口調。
「ま! オレの能力知ったところで逃げらんないし、教えてやるよ。
よく聞けな、少年。あ、吸って良い?」
何を考えているのか、その男は僕の前に座り込んだ。
その上、呑気に咥えた煙草に火をつける。
――くそ…最悪だ。
今のこの体じゃ戦うどころか、立つことも出来ない。
――僕がもっと、強ければ。
強ければ…。
折れた右手と、動きの鈍い左手。
足は力が入らず、歩くことはおろか立つことも出来ずに。
もう、唇を噛み締めるくらいしか、出来る行動がない。
「こいつは『ティーズ』。千年公作の食人ゴーレムだよ。蝶なところはあの人の趣味な」
そう言いながら、彼は自分の手に乗った蝶を示した。
ゴーレム――なるほど、無機質な印象は、そのせいか。
「こいつらは人間を喰うほど繁殖して増えていく。
でもこれは、こいつらの能力であってオレんじゃない。ティーズはただの道具」
月夜に舞う蝶の姿をしたそれを、僕は見ることも出来ない。
そんな余裕は無い。
どうやってこの状況を打破するか。――真っ赤に染まった思考では、何も考え付かない。
「オレの能力は、これ」
不意に。
彼の腕が、伸ばされた。
ドッ…と、胸にはしる衝撃。
腕が、
――胸に、入り込んでいた。
「!!!」
「大丈夫、痛みは無いよ」
どこか優しさすら含んだ声が示すように、痛みは無い。
酷く異様な光景に、ぞわりと総毛立った。
「オレが『触れたい』と思うもの以外、オレはすべてを通過するんだ。
だから今、もしこの手を抜きながら、オレが少年の心臓に触れたいと思えば」
ぐっと、体の中に入り込んだ腕に力がこもる。
「――刃物で切り裂かなくても、オレは少年の温かい心臓を抜き盗れるんだよ」
その口調はどこまでも軽く。
その表情は淡々としていた。
「生きたまま心臓を盗られるのって、どんな感じだと思う?」
嗤う気配が、した。
鼓動が脈打ち、その音だけに支配される。
「少年の仲間も、こうして死んでいった」
死、と。
明確なそれの気配に、鼓動は意思とは関係なく、早鐘のように脈打ち続ける。
「少年も、死ぬか?」
はっきりとそう告げられた瞬間、顔を上げた。
真っ直ぐに相手を、見据える。
覚悟、なんてものはなく。
――ただ、相手の考えを、読もうとした。
「…シラけるね」
小さく息を吐くと、彼はスッと音もなく腕を引き抜いた。
酷くつまらなそうに、彼は両手を広げて見せた。
「盗りゃしねェよ。このままじゃオレの手袋汚れるもん。
だから普段はティーズを手につけて喰わせてんだ」
――ああ、そう言えば、死んだエクソシストの中に、奇妙な死に方をした人がいると聞いた。
多分、この男が。その食人ゴーレムに…心臓を食わせた、死体だ。
「スーマンはちょっと協力してくれたから、
すぐに殺らずにティーズを仕込んで苗床になってもらった…。おかげで少し増えたよ」
蝶が、何かを懐かしむように血溜りの上を旋回する。
不意に、男が咥えていた煙草を棄てた。
「残念だよ、少年。
白いオレん時に会えてれば、もう一度カードで勝負したかった」
――カード?
見ると、彼の手の中には、いつの間に取り出したのか一枚のカードがあった。
「オレ、今とある人物の関係者を殺して回ってるんだけどさ」
カードは指の先でくるくるとひとりでに廻り、ふわりと浮かび上がる。
「答えろ」
ガツッ、と首に押し当てられた、手。
それは確かに『人間』の手の、感触だった。
「少年は、『アレン=ウォーカー』か?」
ざくりと、
大地を踏み締める重い音が、した。
+++
――転がり落ちるように、着地して。
よろよろと歩いて来たのは、半ば偶然に近い、直感に頼った行動だった。
薄暗い竹林の中。
漂うのは、死臭。
目の前には、捜し求めた姿と、招かれざる客の姿。
「……!?」
目を瞠って、アレンが掠れる声でわたしを呼んだ。
傷だらけの姿に、わたしは言葉を失って立ち尽くす。
「…おやおや、これはまた」
アレンの首を掴んだまま、ティキが顔だけをわたしの方に向けた。
彼の周りを飛び交う蝶――ティーズが、わたしの方へ近寄ってくる。
「随分ボロボロじゃないか、お姫様?
っとに、アクマ共は頭悪いね。姫さんを死なせたら、千年公の頭に角が生えちまうってのに」
言われた言葉に、わたしは嗤う。
――何故、わたしが伯爵に望まれるのかわからない。
だけどそれは、ある意味ではわたしの『強み』だ。
「…久しぶりね、ティキ=ミック。鉱山のお仕事はどうしたの」
「ははっ…わかっていて訊くのが趣味かい、姫さんは」
――あの時既に、気づいていただろう?…と。
その目が、わたしにそう語りかけてくる。
「――アレンから、離れて」
「我らが姫は、この少年がお気に入りかな?
でも残念ながら、これもお仕事なんでね。そのお願いは聞けないな」
そうでしょうね。
知ってるわ、そんなこと。
「――《黒金》」
微かな振動と共に、羽根が動いた。
もうまともな力なんて残っていない。
――羽根が姿を変えた小さな刃が、わたしの手の中に落ちる。
「まさか、その身体でオレと戦う気か?」
「…まず勝てないわね」
「わかってるならやめておきなよ。出来れば姫さんに傷はつけたくない」
「ええ、わかってるから、こうするわ」
スッと、わたしはその刃を押し当てた。
――自分の、首筋に。
「ッ…! 何やってるんですか!?」
「アレンは黙ってて!」
一喝して黙らせて、わたしはティキを睨めつける。
にやりと、口角を持ち上げて嗤いながら。
「――アレンから離れて。でないと、わたしはここで首を切る」
「…おいおい」
「わたしは人間よ。ノアじゃない。…首を切れば死ぬわ」
ほんの少し、腕に力を込めた。
プツリと繊維の切れるような音がして、温かい液体が首を伝う。
「ティキ=ミック卿。――わたしを、死なせる?」
――さあ。
返答は、如何に。
「…ったく、女ってのは怖ェな。わかったわかった、ほら」
ため息をひとつ吐いて、ティキが力を緩めた。
そのとき、わたしには気の緩みがあったのだろう。
ティキの腕が、アレンを突き飛ばした。
まともに動く力のない体が、地面に倒れこむ。
身構えるより先に、眼前に迫った彼にわたしは反応出来ない。
ズッ…と。
胸に、腕が入り込んでいた。
「…ッ!!」
「覚悟は立派だが、ツメは甘いね。まぁ、女はそのくらいが丁度良いよ」
「…はッ…会ったばかりの女の懐に、手ェ突っ込むなんて…紳士が聞いて呆れる、わ」
「それは失礼。君がとても魅惑的だったので、手が滑ってしまったようだ」
白々しいことを。
衝撃で、イノセンスの発動は解けてしまった。
わたしの手に――抗う術は、無い。
不自然な体勢のまま、わたしは地面にうつ伏せに押し倒される。
少し離れたところから、アレンのわたしを呼ぶ声がした。
だけど、顔を上げることも出来ない。
手足に、何かが圧し掛かってきた。
重みはない。だけど、動かせない。
無理矢理視線を向けると、無数のティーズがわたしの上に居た。
「くッ…」
「――ティーズ。姫さんは喰うなよ。囓るのも無しな、押さえてるだけで良い」
それだけ告げて、ティキがわたしから離れた。
…それはそうだ。まったく身動きが取れなくなったわたしなんて、取るに足らない存在。
藻掻くわたしには構わず、ティキはアレンの方に歩み寄る。
やめて。やめて。わたしがここに来た意味が無くなってしまう!
「さて、姫さんの目の前で…ってのは趣味じゃないが、仕方ないね。
じゃあ、まずはイノセンスの野郎から逝こうかな」
青い閃光が、目を焼いた。
ガシャン、と。
壊された左腕が、アレンから離れて転がった。
まともに音にならない悲鳴が、わたしの口から上がる。
「知ってた? 少年。
イノセンスって破壊出来んだよ。オレらノア一族と、千年公はね」
「やめろ…」
微かに聞こえる、声。
それに気づかない振りをして、ティキは言葉を続ける。
「今まで殺して奪ったイノセンスは、もう全部壊してる。
『ハート』だったらお前らの持ってるイノセンスは全部消滅する。
それが当たりのサイン。…さて、少年のイノセンスはどうかな?」
無造作に転がる左腕を前に、ティキの声はどこまでも静かだ。
彼にとって、それは『作業』であり、宿敵の『抹消』。
――そこに、罪の意識など生まれるわけも、ない。
「そこの、スーマンのイノセンスだろ?」
「!」
不意に、ティキがアレンの傍に転がる結晶に視線を移した。
先程まで、咎落ちと化して暴走していたそれは、今はただ、静かに光を放っている。
「少年のイノセンスを壊ってスーマンのが消滅すりゃ、これが『ハート』だったってことになるんだ」
ザッ…と、顔から血の気が引いた。
「…ろっ」
『ハート』だろうがなんだろうが、どうでもいい。
わたしは『知っている』。だけど、こんな光景――見たくない。
「やめろおぉおおッ!!!」
――耳を塞ぎたいと、ここまで思ったのは生まれて初めてかも、しれない。
悲痛なその叫びを聞きながら、わたしは必死に心の中で謝罪を繰り返した。
ごめんなさい。ごめんなさい、知っていたのに防げなかった。
もっとわたしが強ければ、こうなる前に別の《未来》を選択出来たかもしれないのに――ッ!
「なんだ、ハズレか」
未だ煌々と輝くスーマンのイノセンスを見て、ティキはつまらなそうに呟いた。
「ま、今回のオレの仕事は要人の暗殺だしな」
『デェ~リイト~』
「はいはい、わかったって」
ゆっくりと、ティキがアレンに近づく。
アレンには戦う術はない。
体力も限界だったのに、目の前でイノセンスを破壊されて精神もボロボロだ。
戦えない。
逃げられない。
だけど、このままでは。
――わたしが護らないで、誰が護る?
「…ッ…《黒金》ぇぇぇぇッ!!」
叫ぶように、わたしはイノセンスを解放した。
歪な形に発動した羽根が、歪な刃を生んで、わたしを拘束するティーズを破壊する。
「ッ!」
ティキが立ち止まり、振り返った。
焼き切れるような痛みに、目の奥が真っ赤に染まってる。
無理矢理発動したイノセンスの形は歪で、今のわたしには、制御出来ないほどだ。
ビキビキ、と異音が鳴る。
耳障りな音。背後から。
もはやそれは、羽根の形すら保っていない。
「…あーあ。折角増えたのに、そんなに壊しちゃって」
壊されたティーズの残骸を見下ろしながら、ティキはわたしの行動を目で追った。
わたしは身体を引きずるように動かしながら、アレンの傍に辿り着く。
「何してんの、お姫様?」
「………」
「まさか、護るつもりか?」
そう尋ねてきたティキの声音には、憐憫が滲んでいる。
いっそ嘲笑えよ。ヤな奴。
「…、…逃げ、て」
「馬鹿」
掠れる声で言われた言葉を、わたしは一言で一蹴する。
馬鹿だ。この期に及んでなお、人の心配なんてしてる場合?
…ああ、でも、わたしの方が救いようの無い馬鹿だから、丁度良いかもしれないね。
「…ティムキャンピー、スーマンのイノセンスを持って逃げなさい」
不安そうにアレンの傍に居たティムキャンピーが、嫌がって体を振るわせた。
それを、わたしは強い口調で一蹴する。
「行って。ティムキャンピーがいないと、みんなが元帥の元へ行けない」
言った瞬間、ティムキャンピーの動きが止まった。
わかってる。わかってるよ。ごめんね、アレンを護れなくて。だけど。
「ごめんね…わかってる。でも、お願い」
歩み寄ってくるティキを睨め上げながら、わたしは、告げる。
「――行きなさい」
強い口調で告げた言葉に、ティムキャンピーは従った。
頭の良い子だから、大丈夫だ。
せめての助けになればと、わたしはソルトレージュを裾から取り出す。
「…ソルトレージュ。おまえはティムキャンピーをお願いね。
そして、もしもの時は――おまえが身代わりを務めなさい」
ソルトレージュは頷いて、そのままティムキャンピーと同じ方向へ飛び立つ。
ティムキャンピー程の能力はないだろうけど、役には立つはずだ。
「お。…なるほど、賢明だな」
飛び立つティムキャンピーとソルトレージュを、ティキはそんな一言で見送った。
彼がイノセンスを追うことは、ない。
もしも《物語》通りに進むなら、イノセンスはリナリー達が回収してくれるはずだ。
「――で? もう立ち上がる力もないお姫様。何がしたい?」
「……」
もう喋る力すら残っていないアレンを背後に庇い、わたしはティキと対峙する。
「そんなことをしても無駄だろ。少年はもう、エクソシストじゃない」
「…だったら、なに」
――エクソシスト? 神の使徒?
それがどれだけのものだと、いうの。
わたしにはどうだって良い、そんなこと。
護りたいだけ。一緒に生きたいだけ。
神様なんて要らない。――何もしてくれない神様なら、居ないのと同じだ。
「…わたしは、《未来》を変える為に、ここに来たのよ」
「少年の『死』を回避する為に? 泣かせるね」
本当に哀しそうな表情でわたしを見下ろして、ティキはわたしの前に膝を着く。
憐憫を込めた視線をわたしに向けながら、視線の高さを合わせて告げる声は、酷く穏やかだ。
「でもさっきので力、使い果たしちゃったんだろ?
もう無駄だよ。諦めた方が良い。その方が、――楽になれる」
「…ッ」
――わかってる。もう、動き出してしまった《物語》は変えられない。
わたしの行為は無駄以外の何でもなく、この先の大きな流れに変化をもたらしたりは、しない。
「もう、エクソシストごっこは良いだろ?」
優しく告げる声とは裏腹に、腹部に重い衝撃がはしった。
殴られた、と認識した頃には、もう身体が前に傾いでいる。
「君は、オレ達の側の存在なんだよ」
――意識が、落ちた。
+++
――そこには、一夜にして地獄絵図が出来上がっていた。
転がる奇怪な残骸と、毒に侵された海。
その傍らで、彼らは疲労と怪我とに浅い呼吸を繰り返す。
――終わった、と言って良いのだろうか。
少なくとも今、周辺にAKUMAの姿は無い。
「…なんだ? 今…遠くで何かが光った」
真っ赤に染まった空の彼方。
遠目からはっきりとはわからなかったが、確かに何かが光ったのを感じて、ラビは呟いた。
戦いを終えた彼らは、負傷した船員達の救助に回る。
――守りと癒しの力を持つ少女が船から離れて、だいぶ時間が経っていた。
「良くないことが起こる…血を零したような、暁だ」
赤に染まる空を見上げて、負傷者を抱えたマホジャが呟いた。
その不吉なまでの色に――その場に居た全員が、胸騒ぎを覚えて口を噤む。
「……」
思わず、ラビは唇を噛む。
――陸に残った3人が、戻ってこない。
「ラビ!!」
「!」
切羽詰ったような少女の声に、呼ばれたラビは顔を上げた。
そこには、目立った外傷こそないものの、ふらつく身体を必死に支えているリナリーの姿がある。
「助けて…」
浅い呼吸の合間に呟かれた、悲痛な声。
ラビは、自分の顔から血の気が引くのを感じた。
+++
気を失った少女の身体を退かして、ティキは半ば意識を失いつつある少年の傍に寄る。
手に掴んだ食人ゴーレムが、けたたましく啼いた。
「心臓に穴を開けるだけにしろよ、ティーズ」
注意しなければすべて喰らい尽くしそうな相棒に、彼は苦笑する。
「こういう勇敢な奴は、死ぬまでにほんのちょっぴり時間を与えてやった方が良い。
心臓から血が溢れ出し、体内を侵す恐怖に悶えて死ねる」
それは慈悲なのか、それとも拷問なのか。
酷薄な微笑と共に呟いて、ティキはアレンの心臓に腕を差し込んだ。
ビクン、と身体が一度だけのたうつ様に動いて、その口から鮮血が吐き出された。
腕を引き抜きざまに、団服に付けられた銀色のボタンを引きちぎる。
そのまま動かなくなったアレンを見下ろし、その懐から零れ出たものに、ティキは手を伸ばした。
――トランプ。あの日、『人間』として出会ったティキが礼として与えたものだ。
そのトランプを、ティキはアレンの上にばら撒いた。
まるで死体を飾るかのような、優美さで。
「…よい夢を、少年」
目を見開いたまま動かない死に体から視線を移す。
「さて、仕事も終わったし、お姫様をお連れしましょうかね」
力なく横たわる少女の姿に、ティキは小さく息を吐いた。
ボロボロに傷ついた身体と、衣服。
彼女をご所望の千年伯爵や、彼女をいたく気に入っている同族の少女から文句を言われるだろう。
…自分のせいではないとは言え、そんなことを聞いてくれる相手でもない。
「ッ!?」
小柄なの身体を抱き上げた瞬間、ティキは腕にはしった痛みに息を呑んだ。
よく見ると、彼女の周囲にまるで霧のようなものが漂っている。
――まるでその身を、護るかのように。
「…驚いた。気ィ失ってるくせに、無意識にイノセンスを使ってるのか」
無意識のものなのか、それは酷く微弱な力だった。
だが、それは彼女の明確な拒絶の意思。
「……わかったよ、姫さん。そんなに執着があるなら、最後の別れくらいさせてやるさ」
そっと、ティキは抱えていたの身体をアレンの隣に下ろした。
寄り添うふたりの姿は、千年伯爵が好む美しい悲劇の形のようで、思わずティキは瞑目する。
「少年が死んだ頃に、改めて迎えに来よう」
イノセンスは彼らノアにとっては宿敵。
自らの存在を賭けても、憎むべき存在だ。
だが。
「――それまで、良い夢を」
――『それ』に選ばれてしまった人間は、脆弱で愛しい。
後悔と自責と、届かない手。
To be continued?
気に入っていただけたら、ぽちっと押してあげてください。コメントは入れなくてもOKです。