『――あら。いらっしゃい。はじめまして』
聞き覚えのない声に、不意に意識が引っ張られるように覚醒した。
緩慢な動きで目を開けると、視界に飛び込んできたのは見知らぬ女性。
黒いドレスを身に纏い、レースで出来た仮面のようなもので顔を隠した、異質な姿。
「…だれ…?」
『私は《クロニカ》。そう呼んでちょうだい、』
どうして、わたしの名前を知っているんだろう。
クロニカ、と名乗った目の前の女性に見覚えはない。名前に聞き覚えもない。
ゆるりと視線を巡らせる。――天高くそびえ立つ本棚に囲まれた、現実味の無い妙な場所だった。
「…ここ…どこ…?」
『ここ? ここは…そうね、《私たち》は図書館と呼んでいるけれど、あなたにとってはちょっと不思議な夢、かしら』
なるほど、夢か。
…夢に見知らぬ誰かが出てくるなんてこと、あるのだろうか。
『混乱しているの? まあ、無理もないでしょうね。でも、難しく考える必要はないわ。
――ここは、数多の《物語》が納められた大図書館。《物語》を愛する少女たちの、夢の果て』
「??」
『良いのよ、理解しなくても。どうせ忘れてしまうのだから』
「え?」
『あなたは選ばれたの。《イヴの娘》として』
「は――――?」
何を言っているんだろうか、このひとは。
目を白黒させるわたしに、しかし彼女は表情を崩すことなく言葉をつづけた。
『――《私たち》は《クロニカ》。個にして全、全にして個である意識の集合体。
数多の物語をベースに世界を生み出し、新たな《物語》を求める《偽書作家》』
《クロニカ》はついと身を乗り出して、その白い両手でわたしの頬を包む。
冷たくも温かくもない、無機質な感覚。目を閉じてしまえば、触れられているという感覚すらないかもしれない。
強制的に、脳が理解して、総毛立った。――彼女は、《人間》じゃない。
『。平凡で退屈な日常を過ごす、《物語》を愛するあなた。
さぁ――――《私たち》に、新たな《物語》を見せてちょうだい』
――――――――遠くで、カチリと時計の針が動く音が、した。
「――――」
覚醒は、唐突だった。
目を開けると、そこに広がるのは薄暗い森の景色。昼間なのか夜なのかもよくわからない。
困惑しながら、ゆっくりと身を起こす。体を見下ろしてみるけれど、特に怪我などはしていないようだった。
靴、は履いている。しかし荷物の類は周囲見回しても確認出来ない。手ぶらで森に来るような用事は思い当たらない。
――いや、そもそも、だ。
直前まで何をしていたのか、まったく記憶に無い。いっそ清々しいほど、綺麗さっぱり無い。
まさか記憶喪失…と一瞬思ったものの、自分がどこの誰かは普通にわかるので、本当に直前の数時間だけ記憶が抜けているらしい。
「…は。もしかしてこれは『異世界召喚』というやつなのでは…!?」
などと馬鹿なことを思わず考えてしまう程度には、わたし――は、混乱していた。
たとえば、どこかに出かける途中で拉致されて山に捨てられた――などと考えてみるけれど、殴られた痕跡も無いし衣服の乱れもない。
本当に、ただ、見知らぬ森の中で転がっていただけなのだ。思わず、異世界召喚などと現実逃避してしまうのも許してほしい。
「…いつまでもここにいても仕方ないか。なんか肌寒いし」
そう独り言ちて、立ち上がる。そして、ぐるりと周囲を見回した。
離れたところに、大きな建物が見えた。直線状の距離は、そう遠くないだろう。灯りが見える、ということは人がいるかもしれない。
意を決して、わたしは建物の方へと足を踏み出した。
.
.
.
15分ほど歩くと、目的の建物の前に到着した。
民家、ではない。遠目からはお屋敷かと思っていたけれど、何かの施設のようだった。
だけど、問題はそこじゃない。
――何かいる。しかも壁…いや、扉、か? に、へばりついている。
…と言うより、生えてる…?
「…あれ? なんか…見たこと、ある…?」
見覚えがある、というのもおかしな話なのだけど。
とても特徴的な顔をしているこの扉、絶対に見たことがある。
恐る恐る近づき、その扉をまじまじと見つめてみる。
途端、じろりと睨まれた。反射的にびくりと肩を竦ませる。
『レントゲン検査! アクマか人間か判別!』
なんとも言えない独特の声にまず驚き、次に言われた言葉に目を瞠った。
このビジュアル。このフレーズ。わたしの記憶が、警鐘を鳴らす。
…いやいや、まさか。そんなバカな。
『んー…? 何も映らない…バグか…??』
壁の顔が、じーっとわたしを見つめてくる。
…嫌な予感がする。これ絶対知ってる。実体験じゃないけど知ってる。この後の展開に、なんとなく予想がつく…!
身構えるわたしの前で、その人面扉はカッっと眼を見開いた。
『こいつアウトォォォ!!』
割と予想通りとは言え、きっぱり言い切られた瞬間、顔から血の気が引いた。
半ば反射的に、自分の頬を抓ってみる。…痛い。夢じゃない。
まさか。ここは。いや、そんな。有り得ない…!
「…うそ、でしょ…ここは…」
――《物語》の世界に行きたい。そんなことは、誰もが一度は夢見る。
だけど、それが現実にあり得る訳がないなんて、もう充分理解していた。
あり得ない。こんなことが起こるわけがない。だって、ここは、
「…黒の、教団…D.Gray-manの…世界…?」
ただ呆然と、わたしは言葉を紡ぐ。
ぞくりと、肌を泡立たせる寒気が、背筋にはしった。
+++
同時刻。
黒の教団本部、科学班の面々は、モニターを取り囲んでいた。
「あっれー? 誰だい、この子。崖上って来たの? ゴーレム達は何してたんだろうね」
「ひとり、ってことは…元帥の弟子じゃないっすね。ゴーレムも連れてないし」
「…あ。身体検査始まったわ」
黒の教団本部室長,コムイ=リーを筆頭に、彼らはその珍客をモニター越しに見つめる。
黒い髪。黒い瞳。一般人に埋没してしまいそうな、平凡な女性。
少女と呼ぶには大人びていたが、女と言うにもまだ幼さを残している。
つまり、平凡に過ぎた。AKUMAが皮を被るには丁度良い程の、普通の女性でもある。
ヒトか、アクマか。
可能性はイーブンだ。
固唾を呑んで見守る面々が醸し出す緊張感の中、門番,アレスティーナ=ドロエ=ギョナサン=P=ルーボーソン=ギア=アマデウス5号の、地響きのような悲鳴が、響き渡った。
『こいつアウトォォォ!!』
まさに地響き、の表現が相応しい声である。
門の前にいた黒髪の女性はぎょっとして、門を見上げている。
その表情には、確かに無防備――しかし、冷静と言えば、冷静だった。
バッと、全員が身構えた。
ツインテールの少女――リナリー=リーが、コムイを振り返る。
「まさか…AKUMA!? そんな、単身乗り込んでくるなんて…兄さんッ」
「単独での行動…レベル3以上の可能性もあるね。いま動かせるエクソシストは!?」
コムイの言葉に、リナリーは小さく頷き、応えた。
「神田とラビが帰ってきてるわ。私も含めて3人よ、コムイ兄さん!」
「よし、ふたりに頼もう。リナリーは門を開けてふたりを外へ! 科学班はモニターの記録、戦闘の際の被害を最小限にとどめる為にケアを! 以上、頼んだよ!」
『了解!』
全員が声を揃え、各々の作業に取り掛かる。
リナリーは、既に入り口に集まっているであろう若きエクソシスト達のもとへと駆け出した。
+++
『アウトだアウト! おまえアウトォォォォ!』
声高に叫ぶ声に、わたしはハッと我に返った。
この状況が夢か現実かはわからない。わからないが、しかし、わかっていることもある。
それは、わたしが現在進行形で窮地に陥っているということだ。
「なにゆえ!? どこら辺がアウトですかわたし!?」
『なんかよく中身見えねェからアウト!』
「そんな理由かよこのポンコツ!!」
目の前のやたらゴツイ人面扉…否、門に向かって、わたしは怒鳴り返した。
さすがに、「中身がよく見えないからアウト」は理不尽が過ぎる。
そもそも、わたしの記憶にある限りこいつが初対面の人間をすんなり通したことは一度も無い。
…新規スキャンシステムが壊れているのではないだろうか? 端から登録している人間しか通さないのでは?
などと考え込んでいると、重々しい扉が開いた。
「……」
…さっきアウトって言われたのに、開いた。とても静かに開いた。
嫌な予感がして、思わず後ずさる。いかにポンコツとはいえ、門番は門番だ。彼のチェックを通過できなかったわたしが、どんな扱いを受けるかは想像に難くない。
思わず身構えるわたしの視界に映ったのは、ふたつの長身の影。
「――一匹か。命知らずだな」
「…ッ!!」
ざくりと土を踏む音。静かな声。感じるのは肌を刺すような視線。
反射的に、思わず息を詰める。冷たく、凍えそうな鋭い視線。――殺気、というものを向けられたのは、生まれて初めてだった。
「度胸は褒めてやる。かなりの無謀、馬鹿とも言うがな」
ふたりのうちひとりが、一歩前に出た。長い髪が、ザッと風に煽られる。
そのシルエット。嫌と言うほど見覚えが、あった。
そして、こういう形では絶対にご対面したくなかった人物だ。
「安心しろ。一瞬だ」
言って、《彼》は構えた。
――刀型の対アクマ武器を。
「――一瞬で、斬り捨ててやる」
完全に門の外へ出て、明らかになるその顔立ち。
――神田ユウ。この《物語》の主要人物のひとりで、日本人剣士エクソシスト。
現実に居るはずのない人物の姿と、彼の握る抜き身の刀を前に、わたしは見入られたように動けない。
意思とは関係無しに勝手に震え出した腕を、強く握ってなんとか堪える。胃の奥が冷えるような感覚。心音だけが、早鐘のように激しく脈打つ。
死ぬ。殺される。だってわたしは、スポーツすら大して出来ない程度の身体能力しかない。避けることだって不可能だ。
「…ぁ、あ、」
必死に、言葉を紡ごうと口を空回らせる。
何か。何でも良い。この窮地を脱するような、何か気を引く言葉を口にしなければ。
「ちょ、ちょっと待って早まらないで!」
「……」
「お、おち、落ち着いて話し合おう! ほら、わたし丸腰ですよ!?」
「…だから?」
「だっ、だから…っ」
わたしは周囲をきょろきょろと見回した。
なにか、なにか無いだろうか。それっぽい理由を付けられる何か…!
元帥の弟子です、とか…いやダメだ。そんな嘘、すぐバレる。
「…え、っと、ええと…! わ、わたしは、19歳、日本人! 平均的な一般家庭に生まれて育った学生です! 気が付いたらあの森の中で倒れてました! ここはどこでしょうか!!」
「…は…?」
「迷子、そう、迷子なんです! お恥ずかしい話ですが!! 帰り道を教えていただけないでしょうか!!」
「……」
警戒と苛立ち、若干の困惑。六幻を構えたままの彼から感じるのは、そんな色。
…嘘は言っていない。何一つ嘘は言っていない。若干怪しかろうが嘘はないのだ。他にどうしろというのか。
「…なーんか気ィ抜けるさー…。レベル3以上の可能性有り、って言うからどんな奴かと思ったらなんだろうな、コレ」
もうひとり、どこか緊張感の無い声音でそう言いながら前に進み出てきた人物。
特徴的なその口調で、姿を見るより先に誰なのかわかった。
――ラビ。国籍不明の眼帯少年。ブックマンという謎の一族の後継者。
「油断するな。レベル2以上の奴らの頭は侮れねぇぞ」
「そうは言うけどさー…。アレ、強そうに見える?」
「まだ本性も表してねぇだろうが油断するなっつってんだろ!!」
「ユウは蕎麦ばっか食ってないで牛乳とか魚も食べた方がいいさ! カルシウムが足りないと苛々するからね!」
「言いたいことはそれだけかッ!!」
そう怒鳴って、神田が六幻を振った。当然、ラビはひらりと回避する。
………あ、柱壊れた。
「…ええと…」
轟音を立てて破壊された柱を横目に見てから、ふたりに視線を移す。
不審人物扱いされてるわたしが言うのもなんだが、仲間割れしてる場合なんだろうか。
…この隙に逃げるか。どう考えても、この中に入れてもらえそうにないし。そもそも話聞いてもらえなさそうだし。
普通、こういう展開だったら途中で誰かが助けに入ってくれるものではないのか。誰も助けてくれないどころか、登場人物たちから不審者扱い。相手が悪過ぎて命が風前の灯火。あまりにも運がない。
……よし、体勢を立て直そう。正直混乱していたけれど、命の危機に追い込まれて逆に冷静になった。
ジリ、と息を殺して後ずさる。
森までの距離は、歩いて15分程度。走れば10分弱。気づかれずに行けるか。自信はない。
森に入る前に気づかれれば、まず間違いなく捕まる。いや、斬られる。でもこのままここに居ても同じだ。
意を決して走り出したわたしの横を、何かが物凄いスピードで通り過ぎた。
発生した余波のような風に煽られ、立っていられなくなって足を動か――そうとして、もつれる。
「うわぁっ!?」
足がもつれて、わたしはそのまま地面にダイブした。
受け身を取り損ねて、強かに顔を打ち付ける。
「いっ…た!! 鼻! 鼻打った!! ひどい!!」
「チッ…避けたか。運の良い奴だ」
思いっきり舌打ちされて、ハッと我に返る。
ゆらりと背後に立つ気配。顔の横で、抜身の刃が鈍く光る。
…今、六幻で斬られそうになったのか。で、その余波に煽られてすっ転んで事なきを得たと。
………いやいや! そんな偶然二度も三度も続かないしこれはいよいよピンチだ!?
「ちょ、っと…待ってッ! 話し合おうって言ったよね、たった今さぁ!?」
「ンなこと了承した覚えはねぇよ」
「そんな!? あまりに気が短い!! 勘違いで人殺して良いと思ってんのかこの前髪パッツン男児!」
「逃げる時点で後ろめたい何かがあると言っているようなもんだろうが」
「あんたたちが人の話聞いてくれないからでしょー!? 問答無用で刃物振り回されたらそりゃ逃げるわッ」
想像以上のスピードだった。あんなの逃げられるわけがない。
たとえば今ここに、AKUMAでも現れて交戦開始でもしない限り、隙なんて生まれないだろう。
「ユーウ? これ、ここまで来て本性表さねぇってことはアクマじゃないんじゃねぇの?」
「もともと五分だろ。…ブローカーの可能性もあるな」
「ナルホド。じゃあとりあえず、捕縛で」
「手足の1、2本は良いか」
「抵抗すんならね」
物騒極まりない遣り取りに、全身から血の気が引く音がした。
明確な身の危険を本能が察知してか、カタカタと体が勝手に震えだす。
「わ、わたしは…ッ」
それでも何か言おうとして、必死に口を開いた瞬間だった。
カ…ッ、と激しい光が、座り込むわたしの下から吹き上がる。
「っ!?」
「ついに本性表したか…!?」
耳元を掠める、轟音。わたしを台風の目のようにして吹き荒れる暴風。
わたしと向かい合って立っていた神田とラビが、吹き飛ばされる。
「こ、今度はなに…ッ」
まるでわたしを守るかのように取り巻く風と、地面より発された強い光。
ドクドクと脈打つのはわたしの心音か、それとも地面か。
何が起こっているのかわからず、地面を見つめていたわたしの前に、ソレは現れた。
「え…?」
わたしは思わず、間抜けな声を出した。
地面から溶け出すようにして現れた、強い、緑色の光の結晶。
掌に乗るくらいのそれは、ふわりとわたしの目線の高さに浮かび上がる。
目を数回、瞬く。目を擦る。…消えない。
目の前に浮かぶそれは、どうやら幻覚の類ではなさそうだ。
「これ…この形まさか、」
――《イノセンス》。
言いかけた言葉を、わたしは飲み込んだ。
いや、だって。
有り得ない。そんなことは有り得ない。なんでわたしの前にイノセンスが現れるの。
《 我を取れ 》
不意に、頭の奥に響く声。
男なのか女なのかもよくわからないその声は、わたしに言う。
《 我をその手に取るが良い。異界の稀人 》
…この声は、…もしかして、イノセンス? イノセンスって喋るの?
半信半疑のまま、恐る恐る明滅する光へと手を伸ばす。
《 ――共に往こう。選ばれし双黒の使徒。…世界の理を壊す《イヴの娘》よ 》
イノセンスに触れた瞬間、響く声が鮮明さを増した。
確かに触れたはずのイノセンスはわたしの手をすり抜け、体内へと沈む。
瞬間、ドクンっ、と強く血が沸騰するような感覚に襲われて、思わずその場に蹲る。
「…ッ、か、は…っ」
熱い。痛い。苦しい。
体が内側から変わっていくのがわかる。
ピキッ、パキッ、と人体からしてはいけない音がする。
呼吸が苦しい。痛みと熱で視界が歪む。朦朧とする意識のまま、わたしは、無意識に虚空へと手を伸ばした。
――この瞬間、確かにわたしの何かが変化を遂げた。
かくして、未完成の《物語》に横槍を入れる形で、わたしの《物語》は幕を開けたのだ――。
奇跡は実際には起こらないから、奇跡って言うはずなのに。
To be continued?
気に入っていただけたら、ぽちっと押してあげてください。コメントは入れなくてもOKです。