場が凍りつくとは、まさに今のような状況の事を言うのではないだろうかと、は思った。
決していやらしい感じではなく。
あくまでも感触を確かめるようなひた向きさで蠢く指は、第七師団団長である神威のもの。
それを唖然と見下ろしているのは、副団長補佐として第七師団に身を置く、だった。
ぽかんと口を開けて、目は真下――つまりは自分の胸元辺りに釘付けである。
もっと詳しく言うならば、自分の胸を鷲掴んでいる手を凝然と見下ろしたまますっかり硬直していた。
と、物が床に落ちる硬質な音が響く。
同じく固まっていた阿伏兎の手から、ペンが滑り落ちたらしかった。
そこでようやく我に返ったは、ハッと身を強張らせると戦場でもお目にかかれない程のスピードで後ろに跳び退った。
「なっ……なななな……――!!」
言葉が喉に絡んで、上手く喋れない。
胸の前で手を組み顔を真っ赤にさせたは、憤死寸前の酷い有様だった。
阿伏兎もまた顎を落としてと神威を交互に見つめていたが、さすがに年の功と言うべきか立ち直りは早かった。
緩慢な動作で頬を掻き、一つ咳払いをする。
「あー……団長。アンタいきなり何してんだ」
「別に何も」
「いやいや、今の胸を……その、触ってたよね?」
「はぁ? どうして俺が、にそんな事をしなくちゃいけないんだい?」
見事に、すっ呆けやがった。
「じゃあ、さっきのアレは何だよ」
「アレ……あぁ――」
一旦言葉を切った神威は、晴れ晴れとした笑顔で言い放った。
「目の前にあったから、ちょっと揉んでみただけ」
……。
さすがの阿伏兎も、これには絶句して目が点状態。
部屋は不自然に静まり返っている。
ふと気になって恐る恐るの方を窺ってみれば、頭を俯けて肩を小刻みに震わせていた。
よっぽどショックだったらしい。
そりゃ嫁入り前だもんなァと密かに同情していると、が勢い良く顔を上げた。
立ち上る湯気が見えないのがおかしい位真っ赤に染まった顔、涙の盛り上がった目、微かに震える口元。
羞恥に耐えているのかと思いきや――。
「なお悪いわぁぁぁぁぁっっ!!!」
般若の如き凄まじい形相で神威の胸倉を引っ掴むと、渾身の力で平手をお見舞いしてそのまま部屋を飛び出していった。
* * *
「……――いてて」
大して痛がる風もなく、神威は先程に殴られた頬を擦った。
抜け目なく殴られる寸前に顔を引いて衝撃を逃したからだろう、頬骨が折れずに済んだのは幸いだった。
例えその白い頬に、真っ赤な紅葉が鮮やかに咲いていたとしても。
それでも神威の顔には、相変わらず人を食ったような笑みが浮かぶ。
反省の色など微塵もなく、むしろ上機嫌な様子の神威に阿伏兎はとりあえず苦言を呈しておく事にした。
「団長ォ。マジ頼むからさ、同じ艦の女にゃ手ェ出すな。発情すんなら、他所の女にしろや」
「――発情? 俺が? 相手に?」
「……」
なぜ神威の方が驚いた顔をしているのか、意味が分からない。
「おいおい、惚けてんじゃねェよすっとこどっこい。今さっきの胸を掴――じゃねェ、揉んでただろォがテメェは!」
「だからって、何で俺がに発情した事になるんだい?」
「え゛。って事はなんだ、アレは無意識のセクハラ行為っつー事なのぉぉぉぉぉ?!」
「――阿伏兎。あまり人聞きの悪い事、言わないでくれるかな?」
相も変わらず顔には笑みが浮かんでいるのだが、低められた声音には隠し切れない怒りが澱んでいる。
阿伏兎が思わず怯んでいる間に、神威が平然と口を開いた。
「俺はただ確かめたかっただけなのに、あれ位でセクハラ扱いされるなんて不本意だよ。
どうせなら、一発ヤッてから言ってもらいたいネ」
一発ヤッてから――?
……。
最後に付け加えられた不穏な言葉は、あえて聞かなかった事にする。
「一応聞いておくが、何を確かめるつもりだったんだ」
「が本当に女かどうか」
「――――――は?」
神威がいけしゃあしゃあとほざいた理由に、阿伏兎はたっぷり五秒程呆けた後で間の抜けた声を上げた。
ってかそれって、見ればすぐに分かる事じゃねェの?!
阿伏兎は、心の中ですかさずツッコミをいれる。
何も彼女が、中性的な顔立ちをしているというわけではない。
服装は……まァ、男物を好んで着ているようだが、それは機動性を重視しての事。
この部分はスルーしておく事にして。
体形だって、程よく筋肉は付いているがそれなりに女性らしい丸みを帯びている。
――確かめる意味、なくね?
「……――どっからどう見ても、ありゃ女だろ」
「うん。俺もずっとそう思ってたんだけど、それは違うよ。阿伏兎は間違ってる」
きっぱりと神威が断言し、阿伏兎の顔が引きつる。
「理由は」
「胸がない」
何とも躊躇いのない、明言っぷりである。
一瞬気が遠退きかけた阿伏兎だったが、彼はの名誉のために頑張った。
気を取り直して、一応反論らしきものを試みてみる。
「胸がないっつっても、女にゃ変わらんだろ。何も真っ平らってわけでもねェんだし」
「あぁ、確かに真っ平らじゃないね」
「だろ?」
「うん。絶壁だった」
「そっちぃぃぃぃっ?!!!」
「疑うんだったら阿伏兎も揉んでみるといいよ、の胸」
「ンな事、できるかっ!」
問答無用で、張っ倒されるわっ!!
速攻で否定してはみたが――そこまで言われると気になってしまうのが、悲しい雄の性である。
脳裏にの全体像を思い浮かべて胸に照準を合わせてみれば、なるほど絶壁と言えなくもない傾斜角だ。
俺的にはもっとこう、手に余る位のデカさじゃねェと物足りないっつーか。
「阿伏兎の好みは、メガドライブだもんねー。掴んだ時、指から肉がはみ出る位じゃないと、満足しないだろ?」
「……何。その含みのある言い方」
「何て言ったっけ。女の胸に挟ませて、擦り上げるやつ。確か、パイズ」
「ストップッ! それ、放送禁止用語ぉぉぉぉぉっっ!! っつーかお前ェ、何でそんな情報知ってんの?!!」
これでもかと言うくらい青褪めた阿伏兎の額からは、冷や汗が止めどなく吹き出している。
誰だよ、ンな情報をコイツの耳にいれやがった奴はッ。
賭けてもいい。
後々からかいの種になりそうな情報を、自ら暴露するはずがない。
大体、腹を満たす事以外興味ゼロな団長に、猥談?
絶対にありえねェだろ。
となると、考えられる事は一つ。
「――吉原か……」
「乳臭い女どもには興味ないけど、それなりに面白い話がいっぱい聞けてね。なかなか有意義だったよ?」
ニッコリと、無邪気な顔で微笑む。
天使のようなと言いたいところだが、フォーク状の尻尾とコウモリの羽が見えてくるから不思議だ。
嗚呼、神様……。
俺は一体どこで、コイツの育て方を間違えてしまったのでしょうか――。
思わず天井を仰いで、信じてもいない神様と相談したくなってしまう。
実際に顔を突き合わせる機会があれば、首根っこをふん掴まえて今までの恨みつらみを訴えたいところだが、
当然そんな機会など訪れようはずもない。
と言うわけで、神様は阿伏兎に何も答えてはくれなかった。
「まっ、そこらへんは置いといて」
自分でとんでもない爆弾を投下したのに、あっさりポイッと丸めてそこらへんに放り投げる。
「吉原の女たちってムダにでかかっただろ――乳が」
「まぁ、それなりに挟み心地は良かったなァ……。いやいや、違うからね?! おじさんが言いたいのはそんなことではなく――!」
「ハイハイ」
「巨乳は男のロマンであって、何も俺だけがおかしな性癖を持ってるってわけじゃ――って、聞いてる、団長?」
「ハイハイ」
「ちっとも聞いちゃいねぇぇぇぇぇぇっっ!!」
「そっか、絶壁じゃなくてアレは胸板だね。揉めないくらい固かったし。並みの男より分厚いんじゃないかな、アレ」
何やら一人、うんうんと頷いている。
阿伏兎の言い訳がましい喚きなど、綺麗さっぱりシャットアウトだ。
右から左へさらりと受け流す神威に、阿伏兎はちょっとだけ泣きそうになった。
「いや、あの、ちょっと……俺の話を無視するのは、いい加減やめようか」
「そりゃ俺だって、この広い宇宙には阿伏兎みたいな巨乳好きのマザコンだけじゃなくて
貧乳好きのロリコンもいるって、ちゃんと理解してるよ」
「何、その分かったような口ぶり。何、その偏った解釈。スッゲェ腹立つんですけど」
「でもね、のアレは貧乳の域を遥かに凌駕していると思うんだ」
「俺の話しは、やっぱり無視か」
「そう考えると、結論はやっぱりこの一言に尽きるよネ」
悪びれない顔で口角を上げた神威は、きっぱりと言い切った。
「は、女じゃない」
結局、不名誉なレッテルをべったりとに貼り付けて、神威は話を締めくくったのである。