当たり前の日々を「当たり前」と享受するのは、実はとても贅沢だと私は思う。
持っていて当然の携帯電話だって、親に与えられたもの。
メンドクサイ、なんて言いながら学校に通えるのも、そもそも衣食住が足りているのも親のおかげ。
つまりこれは、親に何かあっただけで「当たり前の日常」が崩壊することを意味する。
私の生まれ育ったこのちっぽけな島国は武力を持たないし王政でもないから、表向きは平和。
だけど日常用品である、例えば調理包丁一本でだって人は死ぬし、車だって簡単に人を殺せる兵器になり得るだろう。
いやいや、そもそも高いところから人を突き飛ばすだけでヒトゴロシが出来ることを考えれば、
人間を含め生き物は総じて、他の生物を害する危険性を常に内包している。
明日、何が起こるかなんて誰にもわからない。
だから「当たり前」なんて、本当は無い。
なのに何故、日々を「当たり前」だと思ってしまうのか。
その意味を、私はこの『世界』で知ることになる。
目が覚めた瞬間、ベッドから落ちていたことはある。
電車やバスで、終点だったこともある。
だけとさすがに、檻の中というのは夢でもなかった。
…いや、実際夢だろう。だってわけがわからない。
直前まで何をしていたのか全く思い出せないのが若干不安だが、
どう頑張っても檻というのは現実味が無さ過ぎた。
…誘拐?いや、平凡な女子高生攫ってどうするのか。
…ストーカーとか…?いや、そんなものがいるとは思えない。
たったら私は、どうしてこんなところに…?
「…?」
落ち着け、落ち着いて考えろ。
ここが檻の中であることは良いとしよう。
いや良くないけと、とりあえず良いとしておく。
…でもこの手枷足枷はなんだろうか。
紐や縄で縛ってあるわけじゃないよ? 鉄の枷だよ? 手が込み過ぎだろう。
これはもう、夢としか思えない。
現実的に有り得ない。
「お。目が覚めたか。良かった良かった」
混乱している私に、そんな声が掛けられた。
聞き覚えの無い声に振り返ると、変な格好をしたおじさんが檻の外に居た。
なんだろう。何かのコスプレだろうか…? 良い歳して?
「お前は行き倒れていたんだ。どこぞの商人から逃げて来たのか?」
「商人? 逃げてきた…?」
なんで、私が逃げなければいけないのだろう。
このおじさん、何か勘違いしてるんだろうか?
…でも話を聞く限り、どうやら私を助けてくれたらしい。
お礼を言おうと口を開きかけた瞬間、飛び出してきた言葉に私は硬直した。
「ま、残念だがお前は自由にゃなれなかったがな。
逆に俺は運が良い。まさか双黒が手に入るとは!」
…あれ。なんか全然良い人っぽくないんだけど…?
「…そうこく…?」
「黒髪黒目が揃った双黒は珍しいからな。しかも若い娘で容姿も悪くない。なかなかの上客が付きそうだ」
「…何言ってるの…?」
「しかし今日の競りには出せんか…脱走を企てる様な奴隷ではな…。
売り物にするには、きちんと調教する必要がある」
「!?」
ちょうきょう? …調教!? 売り物!?
え、何言ってんのこの人? 私はいったいどこに紛れ込んじゃったの!?
「こう見えても私は上級奴隷を何人も育ててきているからな。久々にやり甲斐のある仕事だ!」
「…待ってよ…おじさん、何言ってるの…?」
奴隷? こ、この人頭おかしいんじゃ…
まずい。状況がまったくわからないけど、まずい。この人やばい。
じり、とほとんど無意識に後ずさった。
だけど私は檻の中。逃げられる範囲なんてたかがしれてる。
どうしよう。どうしよう。どうしよう!?
なんかもうわけわかんないけど、どうしよう…!?
運よく檻から出られたとして、その後は!?
こんな手枷足枷が付いてたら、満足に走れない…!
夢でもこんな展開は全力でお断りだ。何か、誰か…
「――失礼、店主はいますか?
我が主がこちらの商品に大変興味をお持ちなのですが」
突然降って湧いた声に、私は思わずそちらへ視線を向けた。
これまた何かのコスプレなのか、綺麗なヒラヒラした衣装を着た女の人が、部屋に入ってくるのが見えた。
その後ろから、同じような格好の女の人に手を取られる形で、小柄な人物が姿を現す。
ピンク色の頭に、大きな剣を担いだ、派手な子供。
歳は私と同じか、少し下くらいだろうか。
「これはこれは…! お出迎えもせず大変申し訳ありません!!
お客様、本日はどのような品をお求めで?」
いきなり人が変わったように、おじさんは入って来た女の人達――ピンク頭の子供に声を掛けた。
…なんで、大人のお姉さんじゃなくて子供の方に行くんだろう?
あ、でもさっきお姉さんが「我が主」とか言ってたような?
「うん、新しい玩具が欲しくてさ。
店を構えてる奴隷商なんて珍しいしね。どんなの扱ってるか興味があるんだけど」
「きっとお客様にご満足頂ける品がいると自負しておりますよ!
具体的にはどのようなものを? 女、男、子供…様々な奴隷を集めておりますが」
…様々な奴隷って…しかもそんな当たり前のように…。
だけど、それを聞いてもピンク頭のその子は、まったく動じない。
「性別とかどうでも良いんだけどさ、珍しいものが良いな~。すぐ飽きちゃうから」
「珍しいものですか。それでしたら奥の方にとっておきが…」
「ん?」
奥へと促そうとしたおじさんの言葉の途中で、急にその子は振り返った。
…思いっきり目が合った。気まずい。
「そこのおまえ、さっきからずーっと僕のこと見てるけど、なに?」
…ピンク頭で僕っ娘とか狙い過ぎです。
だけど見てはいたけど話しかけて欲しかったわけじゃない。
「ねぇ、聞いてるんだけど? 返事くらいしろよ」
黙り込んでいると、その子は私の入れられた檻を覗き込んできた。
薄暗くてよく見えなかったけど、こうやって近くで見ると、綺麗な顔立ちをしているのがわかる。
「…? ねぇ、もっとよく顔見せて」
「…っ」
顎を掴まれて、無理な体制のまま強引に顔を上げさせられた。
まじまじと顔を見られて、物凄く不愉快だ。私はペットショップの犬猫か。
「…双黒? へぇ…随分珍しいの扱ってるねぇ」
「紅覇様、お召し物が汚れますよ」
「…あのさぁ。一応お忍びで来てるのに名前呼ぶとか…まぁ、良いけどぉ」
紅覇。それがこの子の名前らしい。
お忍びって…どんなご身分なんだろうか。
そもそもその衣装はなんなのここ日本じゃないの…?
「こ、紅覇様!? 煌帝国の…!?」
「あー、うん。そんなびっくりしてくれなくていいからさ。
…これ、気に入ったよ。これにする。幾ら?」
言われた言葉に、私は思わず目を瞠った。
なに自然な感じに売買されそうになってるの私…!?
「申し訳ありません、紅覇様…そちらの商品、まだ調教前でして…
まだ何も整えてもいませんし、高貴なお方の前に出せるものでは…」
「ああ、なるほどねぇ。だからこんな反抗的な目をしてるわけか~」
ちらりと視線を向けられて、思わず睨み返した。
なんで、平然と人間を檻に入れて売買しようとしてるの、この人達。おかしい。
「良いよ、これで。ちょうだい?」
「しかし紅覇様…! このような商品をお出しするわけには参りません。せめてあと一月…」
「はぁ? 何言ってんの?
僕が今すぐ欲しいって言ってるんだよ。…余計なこと言わずに、従えよ」
瞬間的に、紅覇の声のトーンが低くなった。
私からは表情まで見えないけれど、おじさんが薄暗い部屋の中でも顔を真っ青にしているのが、わかる。
「――鍵。早くこれ、出して」
「は、はい! 少々お待ちを…!」
転がるような勢いで、おじさんは奥へ走って行った。
…なんなの、この子…あんな強面のおじさんをあんなに怯えさせるなんて…。
「よろしいのですか、紅覇様? 他を全然見ていませんけれど…」
「んー? いいよ、双黒より珍しいものなんてどーせこの店にはないだろうしぃ」
「確かに…黒髪の人間は時々見かけますが、黒い瞳を持つ者は稀です。双黒となると尚更に…」
「どうしてこんな店に居たのでしょうね?」
「さぁ…本人に聞けばいいんじゃない?
ねぇ? おまえ、どこから来たの?」
「………」
こっちが訊きたいです。
黒髪が珍しい…なんて、どう聞いても日本じゃなさそう…。
目が覚める直前まで、私はどこで何をやっていたんだろう。そしてなんでこんなことに?
「だいぶ警戒されてますね、紅覇様」
「まだ子供のようですし、仕方ないのでは…?」
「調教前だって言ってたしね。…逆らわない奴の方が楽で良いけど、たまには調教師の真似事してみるのも楽しそう。
それに、今は薄汚れてるけど、きちんと洗って飾り立てたら結構楽しそうだよ、こいつ」
「………」
う、薄汚れ…きちんと洗うって…人間に対する言葉じゃない気がするんだけど…。
…いや、待て。でもこれはチャンスじゃないだろうか。
紅覇は小柄で華奢だし、御付きのお姉さん達は服がひらひらしていて動きにくそうだ。
なら、ここを出て枷を外してもらえたら、逃げられる…?
「お、お待たせ致しました…! 檻の鍵と枷の鍵をお持ちしました!」
「ん。後は良いや、僕がやってあげる。
おまえ達、店主に支払済ませちゃって」
「はい、紅覇様」
「い、いえ、お代を頂くなど…! その奴隷は紅覇様に献上致します…!」
「…気持ちは嬉しいけど、商人脅して商品巻き上げたなんて話になるとさぁ、炎兄に迷惑掛るんだよね~。
だからお金くらい受け取っておきなよ。調教前の反抗的な奴隷だっていうのはわかってるしぃ」
…案外、まともだ。買い物の内容が全然まともじゃないけど。
「お待たせ。ほら、おいで?」
「……」
まるで犬猫を呼ぶような、それ。
一瞬躊躇したけれど、このままここに居たって良い事なさそうだし…。
恐る恐る、私は檻から外へ這い出た。
じゃらじゃらと鳴る、鎖の音が耳障りで思わず顔を顰めた。
「僕、先に戻ってるよ。あとよろしくね~」
「ええっ?! そんなっ、お待ちください紅覇さまっ」
お姉さん達を置いて、紅覇は私の手を引っ張りながら店を出た。
…なんか好都合過ぎる。悪運は強いのかな、私。
「……あの」
「ん? あれ、おまえ喋れたの? 口が利けないのかと思ってたよ」
「…これ、外して欲しいんだけど。
こんなのつけて天下の往来を歩くとか恥ずかしい」
「………」
一瞬、動きを止めて紅覇はまじまじと私を見た。
…さすがに、白々しいか…?
「…手枷はともかく…足枷外す為に膝を付け、って言ってるの? 僕に?」
「…………鍵だけくれれば自分で外すわ」
「冗談だよ。……いいよ、外してあげる」
「…ありがとう」
手枷は、あっさり外れた。問題は足枷。
だけどそれも重たい音と共に、落ちた。
瞬間、私は迷わず駆け出す。
「!」
追いかけてくるだろうけど、振り向かない。
そんな余裕はきっと無い。
だから振り返らず、ただ、ただ、がむしゃらに走った。
道行く人を突き飛ばしながら、ひたすらに。
「…元気だなぁ…」
「紅覇様! すぐに捕らえて参ります!」
「あー、いいよいいよ。僕が行くから。おまえたちはその辺りで待ってて」
そんな声を背中に聞きながら、私は全く知らない街の中を一心不乱に駆け抜けた。
幸い、足には多少自信がある。
人出の多い道を使い、時々細い路地を駆け抜け、ひたすら走った。
どれくらい走っただろう。
さすがに限界を感じて、そっと路地に入って腰を下ろした。
…こんなに全力で走ったの、初めてかもしれない。
酸素不足で、頭がくらくらする。
「お疲れサマ。思ったより足速かったねぇ」
「!?」
掛けられた声に、慌てて顔を上げる。
眼前に、息ひとつ乱していない紅覇が、居た。
追いつかれた?! 嘘でしょ、休憩して1分も経ってないのに…!
「うそっ、なんで!?」
「おまえより僕の足が速かっただけじゃない?」
そんなバカな!
いくら私より足が速くても、スタートダッシュのハンデとあの人混みで…!?
「布でも被って隅っこに隠れてたら見失ったかもしれないけど、この国で黒髪は目立つよ?
しかもあれだけの全速力で駆け抜けていけば余計にね。おまえ、どう見てもこの国の人間じゃないし」
「…ッ」
しまった…
そうか、黒髪は珍しいって、さっき言ってた。
あんなに走らなくても、適当な布でも被って大人しくしていれば良かったんだ…!
「外したら逃げるかなぁとは思ったけど、まさか本当に逃げ出すとはね。
あの商人が売りたがらないわけだよ。脱走癖のある奴隷なんて扱い辛いもんね~」
「わ、私は奴隷なんかじゃないわ!!」
「金で買われた時点で奴隷だよ。おまえがどう思っててもさ」
「っ!」
伸ばされた手を振り払って、私はちらりと背後に視線を向けた。
路地の先は、行き止まりじゃない。まだ逃げられる…!
「あれ。まだ逃げる元気があるの? え~…暴れられると面倒くさいな~…」
――次の瞬間の衝撃は、しばらく忘れられないかもしれない。
ほんの一瞬だった。
私は物凄い力で腕を引っ張られて、そのまま地面に叩きつけられ、腕を後ろに捻り上げられて居た。
ぎしぎしと骨の軋む音が聞こえて、激痛に息を呑む。
「痛…っ?!」
「買ったばっかりの玩具を傷つけるのは僕も嫌なんだよ?
しかもこんな埃っぽいところでさぁ…肌も髪も土で汚れちゃうしぃ…」
人を地面に押し付けながら言うセリフがソレ!?
なんなの、この子…凄い力…!!
「僕に買われたんだから、おまえに逃げられる可能性なんて無くなっちゃったんだよ。
もともとそんなに高くない可能性だろうけどさぁ。ま、諦めた方が賢明だね」
動かなくても、もがいても、同じくらいに痛い。
声を出すのも、呼吸をするのすらも、痛い。
――生まれて初めて、死ぬかもしれない、殺されるかもしれないと、思った。
「大人しく僕に従えよ。どうせおまえは逃げられない。
良い子にしてたら…僕が飽きるまで、可愛がってあげるからさ」
幼い顔立ちに不釣り合いな、凄艶な微笑を浮かべて。
紅覇は、地面に縫い付けた私にそう言い放った。
マイナスから始まる高難易度クエスト。
To be continued?
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