「ふたりとも! 大丈夫!?」
「ふちょー…」
蝋燭の頼りない灯りを片手に、婦長が駆けつけてくる。
地震のような衝撃はすぐに治まり、後に残ったのは混乱だけだった。
「ヘーキ…すげェ揺れだったさ」
「よかった…」
「真っ暗…みんな大丈夫?」
きょろきょろと周囲を見回すリナリーに、婦長は小さく頷く。
「私達も大丈夫よ。部屋はすごい有様だけど」
そう答えた婦長の後ろの方で、盛大に薬品をひっくり返す音やら、
言い争う声やら、小さな悲鳴まで上がった。…確かに大丈夫そうだ。別の意味で大惨事だが。
しかし、この騒ぎでも…どうやら重傷の同僚は、目覚めの気配ひとつしないらしい。
「うっそ、クロちゃん今のでも起きねェの!?」
「! ラビ、腕切ってるよ」
腕の中に庇っていた少女の言葉に、ラビは初めて自分が怪我を負って居ることに気付く。
自覚をすると激痛が押し寄せてくるが、これ以上の傷を負った経験がある彼にとって、それはかすり傷程度でしかない。
「あ? ああ、照明とか落ちてきたから…」
「ごめん…」
「ダイジョブさ、こんくらい」
「何カッコつけてるの。来なさい、手当するから」
「つけてねェよ、平気だって」
婦長に腕を引かれて、ラビは即答で返す。
瞬間、戻ってきた婦長の反応は、――般若だった。
「あら? ケガを手当するのが私の仕事なんだけど、何か?」
「すみませんッ」
あまりの形相に、ラビが反射的に謝ってしまったのは言うまでもない。
「……ちょっと待って」
ふと床に視線を落とした婦長が、立ち上がろうとした私達に告げた。
彼女は私の足下に座ると、靴を履いていない私の脚に労るように触れる。
「リナリー、私の靴を履きなさい。素足は危ないわ」
「えっ! いっ、いいよ。それじゃ婦長が危ない…」
「そうさ、婦長。危ねェって、靴ならオレのブーツ貸すから…」
慌てる私達に、婦長は小さく息を吐いた。
そして、先程治療を辞退したラビに向けた――否、それ以上の形相で言い放つ。
「お黙り。あなた達にケガされると私の仕事が増えるのよ」
「「すみませんッ」」
思わず謝ってしまった…。
昔から、この人はどこまでも優しくてとっても怖い。
だけどその怖さは、恐怖ではない。…叱ってくれる、ひとだ。いつも。
「まったくエクソシストは傷に慣れすぎだわ。
小さい傷でも甘く見ると怖いのよ!
何ッ回言えば分かってもらえるのかしら?」
刺々しい言葉の端々に滲むのは、私達を案じてくれる優しさ。
それがわかっているから――無茶をしている自覚もあるから、私達は何も言い返せない。
「――ホント、ここは大変。
生意気な怪我人やら仕事中毒やら、ナースの言う事なんて誰も聞きゃしないんだから…」
――その言葉に、履かせて貰った靴の暖かさに、私は思う。
私の靴は。…《黒い靴(ダーク・ブーツ)》は、いつだって冷たく冷えた感触しかしなかった。
この暖かさは…直接触れることは出来ない、相手の温かい心なのかもしれない。
「きつくない? サイズは大丈夫だと思うけれど…」
「…あったかい。婦長の靴」
ずっと、ずっと忘れてた。
私の護りたかった《世界》。
私が、取り戻したかった《世界》。
――この靴のような、温かい《世界》。
「履き忘れたんじゃないの。
すぐヘブラスカの所に行ってイノセンスとシンクロするつもりだったから、ワザと何も履かなかったの」
決意したつもりだった。
…もう、誰かに負担を掛けたくないと。
もう一度闘おうと、その為なら苦しくても耐えようと。
「足、あったかい」
――そう、決めたはずだったのに。
「あったかいね…」
流れる涙が、止まらなかった。
嗚咽で喉が引きつる。
私は、婦長の胸に頭を預けて、――耐えきれずに、泣いた。
「う…」
「ここにいましょう、リナリー。
きっと大丈夫。こんなひどい朝はすぐに終わるわ」
私をきつく抱き締め、まるで妹か娘に接するような暖かさで、私を慰めてくれる婦長の手。
なんて温かいのだろうと、思った。
ああ、この暖かさの中で、真綿にくるまれていられたら――どんなに良かっただろう。
「イノセンスを体内に入れるだなんてやめて。
室長の気持ちも、わかっているでしょう……?」
婦長の言葉に、私は唇を噛む。
…兄さん。私の大事な、たったひとりに肉親。
大好きな、一番護りたい、存在。
「私…っ、兄さんを悲しませる気なんてなかったの。そんなつもりじゃ…
でもどうしよう…っ、兄さん泣いてた…どうしよう…」
傷つけたくなかった。
あの人には。…あの人だけには、いつも笑顔で居て欲しかった。
そんなことが無理だとわかっていても、せめて一緒にいる間だけでも、微笑んで居て欲しかったのだ。なのに。
「私の言葉は、きっと兄さんを責めてた…っ」
傷つけたのは、私。
あんなに私を想ってくれるあの人を、苦しめているのは私。
「自分が死んでも良いなんて思ってない…!
生きたい…兄さんや…みんなと生きたいよ…っ」
そんなつもりじゃなかった。
こんなはずじゃなかった。
ただ、護りたかっただけ。私の《世界》を。大好きな兄さんを。大切な《家族》を。
「でも、その為には戦わないといけないから…っ、
私にはそれしかないの。兄さんを悲しませたくなんかないのにっ」
それでも、耳に残って離れない。
兄さんの悲痛な声も。言葉も。
「イノセンスなんか大っきらい!
どうしてこんなに苦しまなきゃならないの、どうして兄さんを苦しめるの!!」
神様なんて大嫌いだ。
私の大切なものを、根こそぎ奪い去っていく神様なんて大嫌い…!
返して。
私に時間を返して。
兄さんを苦しめないで。私の大事なみんなを、苦しめないで!!
…だけど、どんなに祈っても願っても、神様は私の願いなんて聞いてくれない。
神様はただ、闘えと私に残酷な運命を突きつけることしか、してくれなかったのだから…。
「…ッ」
静かに抱き締めてくれる婦長の服を、ぎゅっと握り締める。
瞬間、背後で光が――発せられた。
「え…?」
振り返ると、暗い部屋の中で淡い光が浮かんでいる。
それは徐々に何かを形取り――ひとつの無機物へと、変じた。
突然現れた『それ』に、私達は目を瞠る。
あまりにも見覚えのあり過ぎる――そして、ここに在るべきではないモノだ。
「これ…っ」
「ロードの扉…ッ! 下がれ、リナリー!」
「ま、待ってラビ…」
私の前に出るラビの腕を、反射的に掴んだ。
そして私は、噛みしめるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「これ…ロードの扉じゃないわ…」
「は…? 何言ってんだ、どう見ても…!」
「違う。違うのよ、ラビ。これは…」
――どこか、『懐かしい』のだ。この扉は。
形状が、ではなく。そう、雰囲気とでも言えば良いだろうか?
「…どうして…」
「ちょ、リナリー! 危ね…」
思わず扉に手を伸ばした私の腕を、ラビが慌てて掴む。
瞬間、扉は開き、扉の向こうから人が転がり出て来た。
「な…っ」
「!?」
見間違うわけがない。
ボロボロに傷ついた体で、まるで投げ捨てられた人形のように扉の向こうから現れたのは、だった。
私達がわけもわからず、それでも彼女に駆け寄った瞬間、まるで役目を終えたかのように扉は霧散する。
疑問は残るけれど、今は考えている時間が惜しい。
「な、んで…が…!?」
「今はそんなこと気にしてる場合じゃないわ!
…なんて酷い怪我…ッ」
呼吸はしているものの、とても酷い状態だった。
肌を染める赤は、彼女のものなのか、違うのか。…違っていて欲しい。
「婦長…っ」
「わかってます。ふたりとも、手伝ってちょうだい!」
浅い呼吸を繰り返すを抱き締めながら、私は婦長を仰ぎ見る。
婦長はの体を横たえ、私の膝に彼女の頭を乗せる。
先程の衝撃によって、床にはガラスの破片も散らばっている。
出来ればベッドを使いたいけれど、贅沢は言っていられなかった。
「…これは酷いわ…応急処置で間に合うかどうか」
「そんな…」
防護に特化したイノセンスを持つが、こんなに酷い怪我を負ったことがあっただろうか?
こうなることは、あり得ない話じゃなかった。
なのにどこかで、私はそれを失念していたのかもしれない。
「…リナ、リ…ラビ…」
「!」
「無理に動くな、傷に障る!」
浅い呼吸の合間に、は掠れた声で私達の名前を呼んだ。
ラビの制止の声にゆるく頭を振って、は身を起こす。
…酷く無理をしているのが、わかった。
「、何があったの!? アレンくんは?
他のみんなは…」
「…ごめ、ん…」
違う。謝罪が聞きたいんじゃない。
が悪いんじゃない!
なのに彼女は、再度「ごめん」と呟いた。
「違うの、。ごめんなさい…そうじゃないの、謝らなくて良いの…ッ」
「…聞い、て…!」
私の言葉を遮って、は心なしか強い口調で言った。
反射的に、私は口を噤む。
「…ア、…マ…レベ…ル、…が…《方舟》で、研究室…外…」
「え? 何? ごめん、よく聞こえない…」
途切れ途切れに聴こえるの言葉は、辛うじて単語を拾える程度だ。
この傷だ、喋らせない方が良い。
そうはわかっていても、何かを伝えようとする彼女の言葉に、私は必死に耳を傾けた。
『第五研究室壊滅。アクマ、研究室外に侵攻しました!』
瞬間、無線がけたたましい音を立てて通信を繋げる。
無線が吐き出すその言葉を理解するのに、一瞬かかる。
――――今、なんて?
『数は一体。現在レベル4に進化した模様。
第五研究室内のエクソシストの安否は確認できません』
「!! なに…っ」
ラビの顔色が変わった。
暗がりではっきりとは見えないけれど、婦長達も同じだろう。
『繰り返す。
アクマレベル4が科学班フロアに進行中!』
…第五研究室が、壊滅…アクマが教団内へ侵攻…
そこに居たが、傷だらけでここに現れて…じゃあ、アレンくん達は…科学班のみんなは…
「…ッ…ごめ、…ん…」
辛そうに呟き、きつく瞼を閉じて。
――――血の気の失せたその顔に苦悶の表情を滲ませて、が私の手をきつく握り締めた。
+++
――いったい、AKUMAとは何なのか。
生きる生体兵器。人の魂を内蔵した、殺戮兵器。
まるで人間の子供のような姿をしたそれは、手刀で人も無機物も関係なく切り裂いていく。
こんなものを、間近で見せられたら。
しかも、自らもその手に掛かる可能性があるのだとしたら。
――ヒトというものは、発狂してもおかしくはないのだ。
「し…っ、室長ッ」
だが、彼らはギリギリの理性で発狂することを回避していた。
それは、死んだ仲間を思い、相手に向けた怒りなのかもしれない。
『「しつちょう」?』
言葉を拾い上げ、レベル4は周囲をぐるりと見渡した。
「レベル4…っ」
人にも近しい姿をとった、初めて認知するAKUMAの進化形態。
怒り、焦燥、様々な感情の入り交じる視線を向けるコムイに、レベル4は視線を留める。
『しろいろーずくろす。「しつちょう」』
まるでスキャン機能を持つ、コンピュータのような反応だった。
明らかにコムイへと標的を定めたレベル4が、ゆっくりと足を踏み出す。
「逃げて下さいっ、コムイ室長!」
「結界…」
結界装置(タリズマン)を発動する暇すら、なかった。
首を飛ばされた団員は、もはや誰なのかわからない程にその体を損壊させられた。
レベル4はまるで何も障害が無かったように、余裕のある仕草でコムイに近づく。
『くろのきょうだん、えくそしすとのしれいかんですね』
表情ひとつ変えないその兵器は、スッと腕を持ち上げた。
そして、コムイの首筋を軽くなぞる。
『そのくび、えくそしすととおなじかちがあるのでしょう』
「室長!!」
団員の悲鳴が上がるのと、それはほぼ同時だった。
首筋を外れ、肩にはしる激痛。
レベル4によって傷つけられた、というのは理解出来た。
だが、首を落とされずに済んだのは何故か――、
「――ちっ」
聞こえた舌打ちに、コムイはハッと顔を上げた。
眼前で、砕けた刃が床に散らばる。
視線を上げていけば、そこに立つのは流れる漆黒の髪の青年の姿が、あった。
「コムイ。テメー、武器庫もっと充実させとけよ」
「か、神田くん!?」
信じられないものを見たように、コムイは目を瞠る。
如何に優秀なエクソシストとはいえ、今、神田のイノセンスは損傷し、ヘブラスカに預けられている。
彼の手にあるのは、もしもに備えて常備されている武器だ。――もちろん、AKUMAに対しては無力な。
だが、今のタイミング、砕けた刃から見て、AKUMAを一時的とはいえ凌いだのは神田だろう。
「大丈夫ですか、室長!」
「っ出力最大で全機対象に向けて集中。包囲して少しの隙も作るな!」
「はい!」
結界装置(タリズマン)でレベル4を包囲し、発動する団員に、我に返ったコムイは鋭く指示を出す。
そして、結界装置(タリズマン)に囚われたレベル4を――見た。
「こいつ…」
「わ、笑ってる…」
――レベル4は、嗤っていた。
動揺はない。いっそ、無邪気な幼児のように。
しかし、しかし――その笑みは、邪悪だ。これ以上はない程に。
「出てくるな。下がってろ、コムイ」
「か、神田さん!?」
「無茶だ、イノセンスなしで…」
「俺はそうそう死なねェよ」
確かに、神田の不死にも近しい自然治癒能力は健在だ。
そして、彼の剣技は例えイノセンスを持たずとも、AKUMAを一時的に払うことは出来よう。
――しかし、それでも…AKUMAを壊せるのは、イノセンスだけなのだ。
コムイの脳裏に、安否不明のエクソシスト達の姿が、浮かぶ。
彼らの無事を信じてはいるが――それでも、可能性はゼロではない。
長き時を同じ目的を持って歩んできた元帥達。
危険を承知で、彼自身が送り込んだマリとミランダ。
問えば「記録のため」と答えるであろう、《傍観者》たるブックマン。
そして、AKUMAを壊すことだけを自らの生きる道と定めた、哀しい少年。
彼に寄り添い、その全てを受け入れ、支えようとする――少女。
我が儘で口が悪くて、だがそれ以上に優しい…子供であり、大人でもある、不思議な少女。
最後に見たのは、苦しみ、嘆き、それでも周囲を案じて涙を流す――そんな姿。
彼女の姿を眼裏に浮かべた瞬間――最後に思い浮かべたのは、最愛の妹。
もしも、考えたくはないが――もしも。彼女が、彼らが…命を落としていたとしたら…
長い時間を掛けて、ようやく笑顔を取り戻した最愛の妹は、――また、表情を失ってしまうのだろうか。
「……」
教団の室長としては、たくさんの命を預かる身としては、赦されない感情だ。
だがそれでも、コムイにとってはリナリーが全てだった。
大切な少女を護るために、彼女の護る《世界》を護る為に、彼はここに居る。
『コムイ…聴こえるか』
「!?」
「!」
無線機の向こうから聞こえた意外な声に、コムイも、傍にいた神田も反応した。
間違えるはずもない。
100年を教団の為に尽くすエクソシスト――ヘブラスカだ。
『コムイ…私の所へ来い。私がレベル4をひきつける…』
彼女の言葉に、一瞬、目の前が真っ白になる。
『お前たちは…私の内のイノセンスを持って本部を脱出しろ!』
「!!」
『幸い、《方舟》はまだアジア支部とゲートが繋がったままだ。皆をそこへ!
このままでは…被害は大きくなるばかりだ。イノセンスさえあれば本部は立て直せる。コムイ!!』
それは、仲間のひとりである彼女を見捨て――囮にして、逃げろと。
そんなことは出来ない、感情のままにそう叫ぶのは簡単だ。
だが室長としてのコムイは、それが今出来る最善の方法だと――否、唯一の方法だと、確信してしまっていた。
迫られた非情な選択。
コムイは、一瞬――きつく唇を噛み締め、俯いた。
+++
「まだリナリー=リーの力がある! ヘブラスカ」
『!!』
通信に割り込んできたルベリエの言葉に、ヘブラスカは息を飲んだ。
しかし、それは一瞬のこと。すぐに彼女は、100年で培われた冷静さを取り戻す。
『ルベリエか…リナリーはまだ無理だ。
エクソシストは道具ではない。心を伴わない同調(シンクロ)は適合者を殺す』
「イノセンスはアクマを破壊するためのものだろう、なぜ使えんのかね!」
『よせ、ルベリエ…』
ヘブラスカの言葉の端々には、深い悲しみが滲む。
マルコム=C=ルベリエ。愚直なまでに、AKUMAを破壊することを、望む男。
それを宿命とされ、生まれ落ちた哀れな人間。
――誰もが、同じなのだ。
この闘いに関わる者全ては、定められた哀しい運命へと向かっていく。
「…死ぬつもりかね、ヘブラスカ」
『私は百年、教団で生きてきた…教団は私のすべてなのだ、ルベリエ…よせ…』
そのヘブラスカの言葉は、ルベリエには届かない。
――否、届いてはいるのかもしれない。
だが彼に、それを受け入れることが出来ないだけで。
だが、誰が彼を愚かだと言えるだろうか。
エクソシストを道具と、兵器として扱う彼もまた――狗の皮を被せられた、哀れな羊なのだ。
口を噤んだヘブラスカに、ルベリエはそれ以上の言葉を向けなかった。
彼は真っ直ぐに、非戦闘員避難所である医療区域の、扉の一つに向かう。
「長官!?」
開け放たれた扉の向こうで、そう声を上げたのは誰だったのか。
「ルベリエ…」
暗い部屋に入った光に目を細め、ラビ乱入者を仰ぎ見る。
常以上に堅い表情をしたルベリエは、真っ直ぐにその存在を射抜くように見据えた。
「――リナリー=リー」
――呆然と自分を見つめる、年端もいかない少女を。
その、名前を。
「キミはエクソシストだろう」
《エクソシスト》という『符号』で呼び、
ルベリエは非情なる一言を、表情を落とした少女へと――発した。
「おいで」
+++
「聞いたかね?
――ヘブラスカを囮にするそうだ」
通信の向こうに聞こえた、兄さんの悲痛な言葉。
ここで護られる私を責めるような、ルベリエ長官の言葉。視線。
目の前が、真っ暗になっていく――錯覚。
「や…っ」
反射的に、私は掴まれた腕を振り解いた。
怖い。やっぱりこの人は怖い。
胃の奥が冷えるような感覚。指先が冷たく凍えるほどに。
「聞こえたかと訊いているんだ、リナリー=リー!!!」
鋭い声に、私はびくりと体に震えがはしるのを感じた。
…ダメだ。本能に植え付けられた恐怖が、冷静さを根こそぎ奪っていく。
「アクマがッ!
エクソシストが戦うべきものが、そこにいると言ってるんだ!!」
怖い、怖い、怖い…ッ!
動けない。喋れない。
意志とは関係なく震える体。歯の根が噛み合わない。
震えながら俯くと、私の腕を掴んでいた長官の腕が無理矢理引き剥がされた。
「なんだね、その目は。ブックマンJr.」
まだ顔は上げられない。
だけどその言葉で、ラビが助けてくれたのだと、理解する。
「長官! 室長は避難を命じてるのです。我々団員は室長に従いますわ」
「この黒の教団は教皇の軍です。エクソシストは、教皇のものなのです」
動けない私を庇うように、婦長が私の肩を抱き締めてくれる。
冷淡に響く長官の声が、耳に残って何度も反芻されているような錯覚を、覚えた。
「この子達を物のように扱うのはやめてください!
出ていって…! どうかこの部屋から出て行ってください!」
「…おいで、リナリー。キミの進化したイノセンスなら、レベル4に立ち向かえるかもしれない」
――イノセンス…。
そんなものがあるから…だから、みんな傷つくのよ…。
嫌い。嫌い。イノセンスなんて嫌い…!
「エクソシストが守られてどうする」
「おい…!!」
わかってる。
エクソシストは、アクマを壊すために在る。
だから、だから、私の大切なみんなを護るためには必要な力。
わかってる…わかってるの、でも…、
――泣いていた兄さんの声が、言葉が、願いが…耳の奥から、消えない。
「アクマはエクソシストにしか破壊できないのだよ。それが戦わなくてどうするのかね」
「やめて…っ、聞いてはダメよ…!」
耳を塞いでも、聴こえるのだ。
――闘えと。
力の制御すら知らなかった幼い私に、強要した冷たく平坦な声が。
「教団のために戦いたまえ、リナリー」
「やめろよッ!!」
教団の為? 世界の為?
どうして、どうして私が、そんなものの為に…?
「キミはエクソシストだろう!!!」
――エクソシスト…。
そう。私はエクソシスト。
例え闘う力を失っても、その事実は変わらない。逃げられない。
でも――でも…ッ
「――わたしが、出る」
スッと、私を庇うように前に出る、華奢な背中。
真っ直ぐな揺らがない声音からは、強い怒りを感じる。
「!?」
「要はレベル4を倒せば良い。そうでしょう?
…なら、わたしが行く。わたしが戦う。それで問題ないはずよ…ッ」
「何を言い出すのかと思えば…
=嬢。その傷で何が出来るというのかね」
ルベリエ長官が指摘した通りに、は立っているのもやっとの重傷だ。
幸い出血はそれほどでも無いが、だからと言って楽観視出来る程、の体は頑丈じゃない。
「もともと、貴方のイノセンスは攻撃に向いていない。
…退きなさい。《神》の声を聴く《聖女》の代わりは他に居ない」
「……そうよ。わたしの代わりなんてどこにも居ない。だけどそれは、リナリーだって同じだ!!」
強く、頭を打ち付けられたような感覚が、した。
「私達は道具じゃない! アクマを壊すための兵器なんかじゃない!!
心を伴わない同調(シンクロ)がどれほどに危険なのか、わたしは身を以て知ってる…ッ」
私は、どこかで自分を道具のように思っていたのかも、しれない。
生きたいと――兄さんや、や、みんなと共に生きていたいと想いながら。
「スーマンのことを忘れたの!? あなたは…ッ、リナリーを殺す気!?」
…スーマン。
望まずにエクソシストとなり、家族を愛するが故に裏切った――私の《仲間》。
彼は、弱かったのだろうか?
いいや、違う。――ある意味では、私よりよほど勇気があったのだ。
私は逃げ出す勇気も、戦う勇気もなかった。
自分以外の誰かを護ることで、強い自分を演じた。
護られることを甘受し、アクマを壊すことで戦っているつもりでいた。
――私は、なんて狡いんだろう。
「くだらない問答をしている時間はない。…来るんだ、リナリー」
「近づかないで!」
怒鳴り、はその手にイノセンスの刃を発現させる。
漆黒の刃を持つ大振りな剣の形をしたそれは、アレンくんのイノセンスによく似ていた。
「…それはなんの真似ですかな、=嬢」
「――わたしが行くと言っている。リナリーに触れるな…!
これ以上進むなら、例え敵ではない人間でも…わたしは!」
――ああ。
なんて、悲痛な言葉だろう。
逆らえずに、運命だと受け入れ、諦めていた私。
そんな私のために、はこんな悲痛な決断をしようというのか。
――嫌、だ。
苦しいのは嫌。怖いのも、もう嫌。
痛くて辛くて、哀しくて。運命なんて言葉が重たくて――《神様》なんて大嫌いだと、思った。
だけどそれ以上に、兄さんが辛い思いをするのは、もう嫌だ。
――――がひとりで苦しむのは、嫌だ…!
「…ッ…」
私を抱き締めてくれる婦長の腕から、私は抜け出す。
体が震える。だけど――
だけど私は、必死に手を伸ばして、私の前に立つの小さな背を抱き締めた。
「…リナ…?」
「…ありがとう、…ごめんね…」
――私は、卑怯だ。
私を護ってくれるの背に、また縋ろうとした。
こんなにボロボロに傷ついた、小さな背に。
「が私を、大切に思ってくれてるの…嬉しいよ。
でもね、それと同じくらい…ううん、それ以上に、私はが大切なの…」
痛くないわけがない。
体に負った傷もそう。だけど…それ以上に。
――が、アレンくんを置いてきたことに傷ついていないわけがない。
「いつもは、私を護ってくれるよね…
嬉しかった。でも…でも本当はずっと、私も…同じ場所に立ちたかった」
知っていた。
理解してた。
だけどどこかで、考えないようにしていたのかもしれない。
私は良い。物心ついた頃から、ずっと戦場にいた。
だけど、彼女は。…は。
――――どこまでも普通の、女の子だったのに。
「…を護りたかった。
ラビのように。神田のように。…アレンくんのように」
だけど願うだけで、私はきっと、何もしていなかった。
彼女が私に背を預けず、背に庇ってくれていたのは――すべて、私自身に理由があったのに。
「…こんなにボロボロに傷ついて、なのにそれでも…は、ここに来てくれた。
私を護ってくれた…折れそうな心すらも、護ってくれた…」
親友? 背を預けられる戦友? 恋人?
そのどれにも、きっと私はなれない。
私は、護ってくれる彼女の背に隠れて、幼い子供のように泣いていただけだ。
――護られる自分を嘆きながら、それを甘受していたのは私自身だ。
きっと私は、誰よりも彼女に護られ、庇われ、赦されていた。
私は狡い。醜い。彼女の注いでくれる優しさに甘えて、そんな自分に気付かないふりをしていた。
「だから、今度は私の番」
スッと、私はを抱き締める腕を離す。
年上だけど、とても強くて、優しい彼女だけど。
だけど本当は、私よりずっと小さくてか弱くて。
――それなのに、この小さな背は多くを背負い、命を削りながら戦っていたんだ。
それを自覚した瞬間、目眩にも似た感覚に襲われる。
ぐっと唇を噛み、婦長の貸してくれた靴を脱ぎ捨て、私は外へ踏み出した。
ガタガタと手足が震える。寒気にも似たそれは、恐怖だ。
ギュッと自分の肩を強く抱き締めた。…少しだけ、震えが治まる。
「リナ、リ?」
怪我のせいか、それともやはり、精神的な負担のせいか。
細く、弱々しい、私を呼ぶの声。
――怖れるな、リナリー=リー。私はエクソシストなのだから。
みんなを護ると決めた。
兄さんを悲しませないと誓った。
大切な私の《世界》の為に、戦うと誓ったじゃないか。
「。…あなたは、私が護る」
――強く。誰よりも、強く。
そして誰よりも弱くて、優しい、大切なこの存在を。
護りたいと、そう願うのは――私の本心だ。だから。
「ダメよ…っ、リナリー…どうして…」
「来ないで、婦長。ありがと…」
優しさという、温かな真綿にくるまり、夢を見ていたかった。
私に差し伸べられたたくさんの優しい手。
そのすべてに護られて、幸福な《夢》を見続けていたかった。
わかっていたはずなのに。
闘う力を失っても、私はエクソシストだ。
その運命からは逃れられない。違う、逃げてはいけないのだ。
「私…兄さんが来てくれたあの日…もう…ここから逃げられないと思った」
――私が適合者なのは、誰のせいでもない。
だけど、兄さんがこの世界に囚われたのは――私のせいだ。
「あの時私は、逃げることをやめたの」
それでも、無理をして私の元へ来てくれた兄さんの存在は、私にとって何よりも大きかった。
…ごめんなさい。
こんな世界に、大好きなあなたを繋いでしまってごめんなさい。
だけど一度この手に取り戻した家族を、その温もりを、幼い私は手放せなかった。
だから、せめて――そう、誓ったのだ。
「やめて…エクソシストになったんだよ…」
自ら逃げ道を塞いだ。
適合者からエクソシストとなり、私は闘う道を選んだ。
私のせいですべてを狂わせてしまった、兄さんの生きるこの《世界》を。
兄さんが、我が身を犠牲にしてでも願ってくれた、私の幸福を叶える《世界》を。
小さな小さなこの箱庭を、護るのだと――――あの日、誓ったのだ。
「リナリー!!」
ごめんね。
ごめんなさい。
こんな私を、大切にしてくれてありがとう。
だからそんなみんなの為に、私は再び闘おう。
「待って…ダメ、行かないで…ッ」
ごめんなさい。
ごめんなさい。
護ってくれてありがとう。
庇ってくれてありがとう。
――罪深い私を、赦してくれてありがとう。
「リナ…っ…リナリーーーーーーーーーーーーっ!!」
悲鳴に近いその声を、私は唇を噛み締めて聞こえないふりをした。
いくつもの罪の上に、今の私は在るのだ。
贖いきれる罪じゃない。
狂わせてしまった時間。
身勝手な言葉と行為とで、傷つけてしまった大切な人達。
――未来も自由も、狂わせてしまった。
私が、ここに閉じこめた。
私以外のすべてを捨ててくれた、あの人と生きるために。
――そして時間が流れて、私は同じ事を繰り返す。
優しく、強く、誰よりも綺麗で。
彼女に抱いたのは、きっと友情なんかじゃなかった。
あんな風に生きたかったと、強く憧れを抱いた。
強く、優しく。愛する人の為に、すべてを懸ける心の強さ。
彼女以上に綺麗な人なんて、きっとどこにも居ない。
私の為に泣いてくれた。
怒ってくれた。
傷ついてくれた。
それだけで充分だ。――どうしてそれ以上を、ふたりに望めるだろう。
――本当は少しだけ、期待してた。
と一緒に過ごす中で、自分も少しだけ普通の女の子になれるんじゃないかと。
が居て、私が居て、アレンくん達が居て。
そんな私達を、兄さんが嬉しそうに、優しく見守ってくれていて。
そんな《世界》を、願った。
穏やかで優しい《世界》を渇望した。
誰も悲しまない《世界》。
私が、幸せでいられる《世界》
幼い頃に夢見た幸福な《世界》に戻れないのなら、それでも良いと。
――その《夢》を失っても良いと、そう思えるほどの幸福な未来を、切に願った。
だけど、そんな都合の良い夢なんて――どこにも、無かったんだ。
逃げられない。
もう、私は逃げられない。
わかっていたのに。
――それでも夢を見てしまうのは、私の弱さだろうか。
「…そうだ、リナリー=リー。
所詮…逃げられはしないのだから」
「……」
逃げ道なんて、きっとどこにも無かった。
あの日――この世界に閉じ込められてしまった、あの瞬間から。
…ごめんね、。
あんな傷を負ってまで、私を庇ってくれたのに。
…ごめんなさい、兄さん。
全てを捨ててでも、私の幸福を誰よりも願ってくれたのに。
〝ここにいてくれ〟
そう、涙を流さずに泣きながら、告げられた願い。
耳の奥に残る、その声は――この身を引き裂かれる以上の痛みを、落とす。
約束を破ってしまった。
私を想ってくれる兄さんの願いを、振り解いてしまった。
「――ごめんなさい……」
どんなに謝罪の言葉を述べても――きっと、私の《罪》は消えないのだ。
あの日願った《夢》は、遙か遠くに。
To be continued?
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