その瞬間、わたしの《世界》は確かに崩壊していた。
「アレンくんがもう戻ってこないって…どういうこと、兄さん!?」
リナリーの声が、まるでテレビの向こう側のような、リアリティの無いモノに聞こえた。
「…彼はノアとして覚醒した。もう、エクソシストでは無い――」
――コムイさんの言葉が、出来の悪い三流小説のようだと、思った。
「で、でもさコムイ? アレンの左腕にはイノセンスが…」
「――どんな状態にあるにしても。あいつが敵に回ったという事実だけは、確かだろ」
困惑するラビの言葉と、感情を抑えた神田の声とが、頭の中をぐるぐると回る。
「――早急に対処が必要だ。彼はこちらの内情を知り過ぎている」
「…兄さん、それは…アレンくんを…」
「――どのノアよりも先に闘い、倒す。後の憂いを断つには、それが最優先だ」
感情を抑え込んだ、コムイさんの硬い声。
すすり泣くリナリーの、小さくか細い背。
やるせない表情で唇を噛む、ラビ。
苦い表情で、ただ一点を見据える神田。
わたしは、ただ――
――言葉を発することはなく、そこに立ち尽くしていた。
+++
夢なら醒めて欲しいと、何度願ったことか。
だけど何度眠りに就き、何度目覚めようと、見慣れた姿を見つけることは出来なかった。
――アレン=ウォーカーが、ノアとして覚醒した。
それは予想すら出来なかった、不測の事態だった。
わたし達が生き残り、教団に戻って来られたのはひとえに、アレンの気紛れだ。
「……ッ」
あの凄惨な光景が、眼裏に焼き付いて消えない。
教団までの帰路。とある街に駐屯していた探索部隊達の、死体の海。
その中央で、血塗れの団服を脱ぎ捨てた――ひとりの少年。
真白の髪すら朱に染め、凄艶な微笑を浮かべて振り返った、あの瞬間が。
忘れられない。眼裏に焼き付いて離れない。
当然のように千年伯爵の隣に立ち、少しだけ嗤って、告げた言葉。
次は無い。
次に相見える時は、互いに敵だ――と。
何の躊躇いも感慨も無く告げられた言葉に、どう反応すればいいのかわからなかった。
…どうしてだろう。
どうして、こんなことになったのだろう。
こんな《世界》は知らない。
あり得ない。こんな《結末》はあり得ない。
いつから、こんな風に歪んでしまったんだろう――?
「…どう、して…?
いつから…こんな風に、歪んでしまったの…」
この《世界》が、わたしの『知る』ものと違うところ。
――《わたし》という、存在?
「…わたしの、せい…なの?」
「――違いますよ、。君のせいじゃない」
「ッ!?」
唐突に背後から聞こえた声に、体が硬直した。
まさか、と。
聞き覚えのあるその声に、私はゆっくりと振り返る。
だが、わたしが振り返るより先に、背後から両手首を掴まれた。
「――ッ!!」
「こんばんは、。
こんなに簡単に後ろを取られるなんて、相変わらずちょっと間抜けですね」
耳元で囁くように言われた言葉より、それを発した声にこそわたしは目を瞠る。
聞き慣れた声、だった。
間違えるはずも、ない。
「…アレ、ン?」
「はい。僕ですよ」
「どうやって…部屋に入ってきたの…」
「それは、もちろん――」
常と変わらない口調と、微笑う気配。
ああ、あれはすべて悪い夢だったのか――と、そんな思いが頭を過ぎる。
「――ロードに《道》を繋げてもらいました」
「……ッ!!」
当然のように言われた言葉に、息を呑む。
――ああ。夢なんかじゃない。それは悪夢よりも呪わしい、純然たる事実。
「何を今更驚いているんですか。
…僕は言ったはずですよ、「次に相見えるときは敵同士」と」
嘲るような微笑を零しながら、囚われた手の指先に落とされる、口付け。
手首を握るアレンの手が、どこか冷たい。
「ああ、でも安心してください。の敵に回った覚えはありませんから」
「…どういう、こと…わたしは、エクソシストよ…」
「違いますよ、」
まるで諭すような優しい声音で、囁かれた言葉。
それは、私から冷静さを奪い去るのには充分過ぎた。
「君はエクソシストじゃない。
イノセンスをその身に宿す、《ノアの聖女》だ」
――頭の奥で、警告音が鳴り響く。
聞くな。耳を塞げ。聞いちゃダメだ…ッ!
「迎えに来たんです。君を」
「…迎えに、って…わたしに…みんなを、裏切れと…?」
「。それは違う。僕も君も、初めからこちら側の存在です。
このまま教団に留まることこそが、一族への裏切りですよ」
「ど…して…ッ」
何の躊躇いもなく言われた言葉に、わたしは手を振り解いて振り返る。
外見的な変化はない。触れた左腕から感じる、イノセンスの気配も変わらない。
なのに、違う。纏う雰囲気が違う。笑顔が違う。
「アクマを壊すことを、自分に課したんじゃなかったの!?
マナ…お義父さんとの約束は!?
クロス元帥に会って、エクソシストとして生きるって決めたんでしょう!
なんで…ッ」
「――。僕はこの聖痕がある限り、もうエクソシストじゃない。ノアの一族です」
鎖骨の下辺りに刻まれた、聖痕。
消えようのないそれに、視界が涙で滲む。
どうしてアレンの聖痕が、ロードやティキのように額に現れないかなんて些細な疑問。
それが――ノアの証たる聖痕が、彼の体にある。それだけで、もう後戻りは出来ないのだ――。
「全てを壊す《虚無》のノア――それが今の僕です」
「…アレン…どうして…ッ」
「そんな顔をしないで、」
困ったように表情を歪めて、アレンはわたしを強く抱き寄せた。
抱き締めてくる腕は、変わらずに優しい。
なのにどうして、今、わたしを抱き締める彼は、今までの彼じゃないの。
「君は僕が護る。何も恐れることなんてない。だから、一緒に来て」
「……っ」
強く抱き締められながら、囁かれた言葉。
体が、震える。
彼がノアでなければ。わたしがエクソシストでなければ。
ああ、きっと、こんなにも苦しい思いをしなくて済んだのに。
「――…な、い」
「?」
「…行け、ない」
引きつるような痛みが、言葉を絞り出した喉にはしる。
その痛みを飲み込んで、わたしはアレンを突き飛ばした。
「…出来ない。わたしは、一緒になんて行けない…ッ」
「…」
「…お願い、アレン…今ならまだ、間に合う。戻ってきて…」
…間に合う? 本当に?
本能が悟る。もう後戻りは出来ない。
それは、わたし以上にアレン自身がわかっているだろう。
「――無理ですよ。今の僕には、エクソシストを殺したいという本能がある」
――ああ。
わかっていた、はずだったのに。
「…残念だよ、…出来れば、には自分の意志で僕の手を取って欲しかった」
小さく息を吐き、アレンは真白の髪を払う。
不気味なほど静かな、佇まい。
「――力ずくでも連れていく。君はノア一族にとって必要な存在だから」
向けられた、凄艶な微笑。
一瞬だけ、わたしは目を閉じた。
「…ッ…――《黒曜》」
スッと、腕を前に突き出す。
背後でイノセンスの羽根が具現する。
ゆっくりと目を開ければ、眼前に立つアレンの姿が、視界に焼き付く。
「君の能力では僕に傷も付けられないよ、」
「…その言葉はそっくり返すわ、アレン。わたしの盾は突破出来ない」
「突破出来ない?」
ス…ッと、アレンが右手を持ち上げた。
そして、わたしの前に張られた漆黒の盾に触れた。
「だったら、『消して』しまえば良い。それだけのことだよ――」
言った瞬間、わたしの盾は文字通り『消失』した。
意思に関係なく消えたそれに、わたしはただ、大きく目を瞠った。
「全てを壊し、消し去る《虚無》――それが僕の、ノアとしての能力。
対象が固体・気体・液体、思念波でも関係ない。存在する全てを壊し、消すことの出来るちから」
――ロードが《夢》。ティキが《快楽》を司るように。
既にアレンにも、司るちからがあるのだと――
ああ、本当に…彼はエクソシストの敵になったのだ。
エクソシストとは別の神に選ばれた、使徒に変わってしまったのだ。
「…と言っても、イノセンス自体をこの能力で『消す』ことは出来ないけどね。
まぁ、僕自身もと同じように特殊だから、多少イノセンスに対して融通は利くらしいけれど…」
――いいや、違う。
変わったのではなく。
その身に聖痕も、イノセンスも宿す彼は。
初めからずっと、ふたつの神に愛された子供だったのだ。
「……」
ふらりと、体が傾ぐ。
その場に座り込んだわたしに向かって、アレンが足を踏み出した。
「君の能力は、一対一の闘いに向かない」
「…アレ、ン…」
「…」
囁くようにわたしの名前を呼び、アレンは膝を着いて目線を合わせた。
そして、そっと手を、差し伸べてくる。
「――一緒においで」
「…っ…」
その声音が、浮かべた笑みが、どこまでも優しく。
わたしに向けられるその感情だけは、変わっていないと、わかってしまった。
わからなければ拒絶出来た。
気付かなければ、わたしはエクソシストのままで居られた。
だけど、でも…
わたしの名前を呼ぶ、声に。
わたしに微笑み掛ける、笑顔に。
わたしに触れる、手の温かさに。
――わたしは、差し出された手を拒むことなんて…出来なかった。
気に入っていただけたら、ぽちっと押してあげてください。コメントは入れなくてもOKです。