「…なにしてんの、姫さん?」
豪奢な椅子の上に丸くなって、自分の手を見つめていたわたしに掛けられた声。
もはや聞き慣れたその声の主は、怪訝そうな表情で近づいてきた。
「…見てわからない?」
「わからないから聞いてるんだけど」
「……察しの悪い男だね」
「それ、酷くない?」
そうは言いつつも、困ったように苦笑するその様子から察するに、さして気にしていないのだろう。
それは、幼い子供の突飛な行動を見る、大人の反応だった。
椅子の背もたれに背を深く預け、わたしは息を吐く。
「…爪が割れたの」
「は? 整えれば良いだろう? 今使用人呼ぶから」
「いいの」
呼び鈴を鳴らそうとした彼――ティキ=ミックの行動を遮り、わたしは強く言い放つ。
わたしの身だしなみに注意を払う人間は、ここには居ない。
まぁ、せいぜい…着飾って欲しいと要求してくる、マイペースな少女と中年太りのオッサンがいるくらいだ。
「いいの。…どうせ、気にする相手ももう居ないから」
「……」
だいたい、ここの使用人なんてAKUMAじゃないか。
未だ体内にイノセンスを宿すわたしに、近づきたがるAKUMAは居ない。
「…姫さんや」
「何よ」
「後悔してる?」
「……」
ティキの言葉に、わたしはゆるりと視線を上げた。
すぐ近くに、ティキの端正な顔がある。
目線を合わせようとでもしているのか、椅子に両手を置いて、まるでわたしを閉じ込めるかのように。
「…後悔?」
言われた言葉を反芻して、わたしは鼻で笑う。
「ティキ。『後悔』っていうのは、自分が行った行動や言動を、後になって悔やむことを言うわ」
スッと、わたしは自らの腕を持ち上げた。
わたしに刻まれたそれは、彼らのように額ではなく手の甲に出ている。
これだけでも充分特殊だというのに、さらには体内にイノセンスまで宿して。
もはやノアでもエクソシストでもなく、わたしはただの『奇怪な化け物』だ。
「わたしに、聖痕がある以上――教団へは戻れないのよ」
「まぁ、そうだろうな」
「戻れないから、ここに居るだけ」
「ふぅん?」
「『後悔』する要素が、どこにあるの?」
「なるほどね」
わたしの答えに、納得したわけではないのだろう。
スッと、ティキがわたしの頬に手を伸ばす。
どこか憐憫さえも滲ませた視線が、落とされた。
「姫さんは聡明だ」
「……」
「でも情が深過ぎる」
「……何が、言いたいの?」
「そんなんで、エクソシスト殺せんの?」
「――ッ」
明確な音として伝えられたその言葉に、全身の血が凍りつくような錯覚を覚えた。
ノアとエクソシストは、相容れない存在。
殺し、殺される関係。
ノア側に居る以上は、わたしも…アレン達を――?
「ま、姫さんは正確にはノアじゃないし?
エクソシストを殺したい、っていう本能もないわけだから、別に良いっちゃ良いけど」
「……」
「他のノアが、それで納得すると思う?」
「………」
「夢とか、見ない方が良いよ。
ノアとエクソシストは、殺すか殺されるかの関係にしかなれない」
「…わかってる」
「だったら、姫さんの進む道はふたつのうちひとつだ」
膝の上で強く握り締めた手に、ティキの冷たい手が重ねられる。
単にティキの体温が低いのか、わたしの体温が高いのか。
冷えた指先の感触に、わたしは握り締めた手に力を込める。
「愛した男を自分の手で殺すか、愛した男の手で死ぬか」
「…わたしは」
「どっちも選びたくないなら、恋慕の情なんて捨てちまえばいい」
スッと、ティキの手が、握り締めたわたしの手を解く。
割れた爪で傷ついた手のひらに、彼は当然のように唇を寄せた。
「――爪ならオレが整えてやるよ」
「…やめて。上辺だけの言葉は要らない」
「上辺だけ? それは違うな。オレ達ノアは、魂から姫さんに焦がれている」
「やめてよ、…お願いだから」
「本能でエクソシストを憎むように。
オレ達は、本能のままに《イヴの娘》を慕い、焦がれ、求めている」
「いや…ッ」
――心の整理なんて、出来ていないのだ。
わたしはエクソシストとしてこの《世界》に来て、ずっとエクソシストとして生活してきた。
教団のみんながわたしの『家族』で、『仲間』だった。
もう戻れない。そんなのわかってる。だけど、理解と自覚は違う。
だって、わたしはみんなが好きだった。
わたしを姉のように慕ってくれたリナリー。
誰よりもわたしを理解してくれたラビ。
きっと誰よりも早く、本当の意味でわたしを『仲間』と認めてくれた神田。
コムイさん、リーバーさん、科学班の皆。ミランダさん、クロウリー。探索部隊の人達。
そして――
「…アレ、ン…」
一緒に居た時間は、そんなに長い方じゃない。
だけど、誰よりも近くに居た。喧嘩ばかりしてたけど、だけど。
――誰よりも、好き、だった。
「…一晩くらいなら泣いてもいい。涙が枯れた頃には――」
泣くものか、と。
わたしはきつく唇を噛んで、込み上げてくる嗚咽に耐える。
蹲り顔を伏せるわたしの肩に手を置いて、ティキは力を込めずにわたしを抱きしめた。
「っ」
「――あんたは《ノアの聖女》として、オレ達の上に君臨する」
腕から抜け出そうと、わたしは藻掻く。
縋りたくない。優しくされたくない。
せめて心だけは、エクソシストのままで居たい…!
「その時姫さんは――かつての《仲間》を壊すか、今の《家族》を切り捨てるか。
さて、どっちだろうな? まぁどっちでも良いさ、好きな方を選べよ」
そう語るティキの声音はどこまでも優しく、だけど言葉自体は酷く辛辣だった。
わたしの抵抗など気にも留めず、わたしを抱きしめながら囁く彼の言葉は、胸を抉る。
「あんたに殺されるなら本望だと、泣いて喜んでやるよ、…」
「……ッ!」
囁かれた言葉に、ぞわりと背筋に寒気にも似た感覚がはしる。
わかっていて、言ってるのだ、彼は。
わたしが、心だけでもエクソシストでありたいと、そう願っていることを。
「…卑怯…よ…ティキ…ッ」
「男は総じて卑怯な生き物だよ、お姫さま?」
無意識に震えるわたしの髪を撫でながら、ティキは優しく語る。
いや、違う。
それはまるで、イヴに知恵の実を食べるように唆す、聖書に記された蛇のような。
「残念ながら、オレは純粋なガキじゃないんでね。
愛してくれと泣き叫ぶような愚かさは、持ち合わせちゃいないんだ」
わたしの髪を指で梳き、耳に触れるだけの口付けを落とす。
その感覚に背筋に寒気がはしり、わたしは目をきつく閉じた。
「だから、オレに言えるのはひとつだけ」
耳から首筋へと、口付けが落ち。
わたしの身体は意思とは無関係に震え、それを抑えようとわたしは再び自らの手のひらを傷つける。
「オレはあんたを愛するよ――」
「…っ」
耳元で囁かれた言葉に、わたしはただ、きつく目を閉じて耐えた。
嫌だ。嫌だ。もう嫌だ。
これならいっそ、始めからこちら側に居れば良かった。
もう戻れない。戻れないのに、こんなにも苦しい。
それでもティキ達を憎めない。
だって彼らは、わたしに優しいから。
大切な『家族』だと言って、接してくれるから。
知りたくなかった。
彼らも《人間》で、『家族』に情のある存在だなんて。
だから初めて、信じてもいなかった神様に、願った。
――お願い、神様。わたしを、《此処》から出して。
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